広島県出身の元プロ野球選手で、野球解説者の張本勲さんが亡くなりました。86歳でした。張本さんは、野球界のご意見番として活躍する一方、被爆体験を語れる最後の世代の1人として、機会あるごとに、若い人たちにメッセージを送り続けてきました。被爆70年に取材に応じてくれた、張本さんの声をお届けします(企画は2015年1月8日放送)。
2014年11月、三原市で、子どもたちのための野球教室が開かれました。
元ロッテの村田兆治さん、元中日の谷沢健一さん、元阪神の藤田平さん。懐かしい名選手が講師を務めるこの野球教室に、張本さんの姿もありました。
張本勲さん
「そうそう、スタンスもいいし、ステップもいいよ。ナイスバッティング」
張本さんは30年近く、全国の子どもたちに野球を教えています。

張本勲さん
「平和だから(野球が)できるのであって、なるべくたくさんの子が野球できるような環境を、我々大人がつくってあげないと。そういうふうに考えていますよ」
「ピカッと光ってドーンで」広島で5歳のときに被爆

野球界のご意見番・張本さんは、1940年、広島市内で生まれ、5歳の時、被爆しました。被爆体験を話してほしいと依頼があれば、張本さんは積極的に出かけてきました。
張本勲さん
「5歳ですから。幼稚園にとても行けるような身分ではありませんので、外で遊ぼうと思ってガラリと戸を開けた瞬間、それこそピカドン。ピカーッと光ってドーンで」
高校卒業しプロ野球の道へ…1人で4人の子育てた母の存在

高校を卒業してプロ野球選手になった張本さんは、通算安打3085本の記録を誇り、首位打者は、4年連続を含めて7回獲得しました。
母親の順分さんは、張本さんの活躍を、だれよりも喜んでくれていたそうです。朝鮮半島から日本に移り住み、夫を亡くした順分さんは、1人で4人の子どもを育てていました。
「比治山で我々、命が助かった」

戦時中、張本さん一家が住んでいたのは、現在の広島市南区段原です。
張本勲さん
「この辺か。ちょうどこの辺じゃ。あれ比治山だからね、海抜72メートル。この比治山で、我々、命が助かった。原爆の光、煙を吸わなかったから。これがずーっと向こうまで、山の近くまで。この半分くらいの路地だったかね、15~6軒、長屋がありましたんですよ」
「絶叫と泣き声 本当の地獄図というのはあの光景でしょうな」

原爆投下のあと、母親の順分さんは、勤労奉仕に出ていた長女の点子さんを捜しに出かけました。比治山の陰の自宅にいて助かった張本さんと次女の貞子さんは、近くの畑に避難していました。
張本勲さん
「うめき声と人肉のくさいにおい、5歳ですけど、2つ3つは覚えています。夜はもう絶叫と、さけび声と泣き声と。本当の地獄図というのは、あの光景でしょうな」
点子さんは、2日ほどして自宅近くに運ばれてきたそうです。
張本勲さん
「見るも悲惨はケロイド、火傷のあとで、どうでしょう、2日もたなかったみたいですね。痛い、苦しい、熱い、こういう声しか声にならなかったみたいだね。(母は)おそらく2日間、一睡もしないで泣いていたのを、私もうっすら覚えてますよ」
すべて捨てた長女の写真…69年ぶりの再会

母親の順分さんは、思い出すとつらくなるためか、点子さんの写真などを、すべて捨ててしまったそうです。
張本勲さん
「立派な街になりましたね。こんな街になるとは、想像もしていませんでしたよ。草木も生えないと言われたんだから」
点子さんは、張本さんの心の中に、思い出として生き続けてきましたが、去年の春、張本さんのもとへ、思いもよらない知らせが入りました。点子さんの同級生から「一緒に写った写真がある」と、連絡があったのです。

69年ぶりに見る姉の姿でした。
張本勲さん
「きのう、墓参りに行って、おふくろの墓に供えて、『おふくろ、69年ぶりじゃ』ゆうて、なんかどっかで泣いとるような声が聞こえたような気がしたよ、きのう」
「悔しいやら悲しいやらで」語れなかった被爆体験 入れなかった資料館

プロ野球選手として活躍していたころ、そして現役引退後も、張本さんは、被爆したことを人に話したことはなかったそうです。
張本勲さん
「よく子どもの頃、ケロイドで、女の子も男の子も、学校に来た生徒には、近寄るなと父兄が言ったそうですよ、うつるからと言って。被爆者というのは、大体言わない人の方が多かったね」
張本さんが少しずつ被爆体験を語り始めたのは、60歳を過ぎてからです。しかし、それでも原爆資料館には、入ることはできませんでした。
張本勲さん
「2度ばかり来たことがあるんですけど、入れなかった。悔しいやら、悲しいやらで、これだけ広島に帰ってきて。この洋服を見て下さい。熱かっただろうに、苦しかっただろうにね。姉さんを思い出すわ、このケロイドを見ると。ああ、こんなひどい…」
「あまりにも思い出す…」張本さん動かした小学生からの手紙

張本さんが資料館に入ることができるようになったのは、ある小学生からの手紙がきっかけでした。
張本勲さん
「私はね、8月6日と8月9日、長崎、この日は暦から消してもらいたいと発言したことがあるんですよ、あまりにも思い出すから。ところが九州の小学校の女子徒がね、逆じゃないでしょうか。忘れないためにも、6日と9日はあった方がいいんじゃないかと手紙をもらいましてね、はっと驚いて」
その手紙には、少女が長崎に修学旅行に行き、「怖かったけど、資料館の展示を見ることができた」とも綴ってありました。
「修学旅行は必ず原爆資料館に来てもらいたい」

張本さんは、小学生に背中を押され、被爆の実相と向き合うことができるようになったと言います。
そして、今は、全国の子ども達が、修学旅行で広島、長崎を訪れることが大切だと考えるようになりました。
張本勲さん
「修学旅行は、必ずこの長崎、広島の原爆資料館に来てもらいたい。そして、この悲惨な結果を、2度と戦争をおこしてはいけないんだと、人間のやる所業じゃないんだということを認識してもらいたいんですよ」
「しっかり見て、帰って、いろんな人に話してくれよ」

張本さんが平和公園を散策していると、中学生らが「一緒に写真撮ってください」と集まってきました。快く応じながら、張本さんは、子どもたちにもお願いをしたと言います。
張本勲さん
「しっかり見て、帰って、いろんな人に話してくれよ。見学だけじゃないよ。これは現実に起きた事実だから、二度とこういうことがない社会をつくってくれということを、中学生たちに言いましたよ」











完全無料で広島情報


コメント (0)
IRAWアプリからコメントを書くことができます