被爆から2か月後に撮影された「おんぶされた男の子」。広島県呉市に住む竹本秀雄さん(84)です。4年前に「この男の子は私」と名乗り出ました。以降、被爆体験を体験を話すようにもなりました。被爆から81年となった今年も、あの日の記憶を伝え続けています。

1945年8月6日、竹本さんは、爆心地から約1km離れた自宅で被爆しました。当時わずか3歳。倒壊した建物の下敷きになりましたが、兄の定男さん(当時11歳)が見つけてくれて、助け出されました。
被爆2か月後の映像に残された「おんぶの男の子」

命は助かったものの、左頬には大きな傷を負いました。
被爆から2か月後、焦土と化した広島の街で撮影された映像があります。そこに映っていたのは、定男さんに背負われ、頭に包帯を巻いた幼い竹本さんの姿でした。

竹本さんは4年前、この映像に映る「おんぶの男の子」が自分自身であると名乗り出ました。
それをきっかけに、自らの被爆体験も伝えるようになりました。
「幼くて覚えていない」姉の記憶をたどる日々
しかし、当時3歳2か月だった竹本さんには、記憶がほとんど残っていませんでした。
竹本秀雄さん
「逃げる途中で見た燃えている橋、そして、水を求めていたのか、女性の姿。これははっきり覚えている」

断片的な記憶を補うため、5歳上の姉・山田ユキエさん(89)にも当時のことを聞くようになりました。
竹本秀雄さん
「姉の話と自分の記憶と繋ぎ合わせながら、自分の物語にしている」
原爆が奪った10歳の姉の命
竹本さんが体験を話すとき、必ず伝えることがあります。それは、原爆によって命を奪われた10歳年上の姉・君江さんの存在です。
君江さんは当日、建物疎開の作業で屋外にいたため被爆しました。行方不明となった君江さんを両親が探し続けていました。
被爆から20日以上が経った頃、救護所となっていた似島(現・広島市南区)に収容されているとの知らせがありました。

「お父ちゃん、お母ちゃん…」

両親が駆けつけると、無数の負傷者が横たわり、なかなか見つけることができなかったといいます。
竹本秀雄さん
「探しあぐねていたとき、突然、『お父ちゃん、お母ちゃん』と呼ぶ声が聞こえたそうです」
両親は、やっと君江さんと再会、自宅へ連れ帰ることができました。
しかし…その翌日の8月30日、君江さんは息を引き取りました。

竹本さんの家庭では、今でも毎年8月30日まで盆灯籠を飾り続けています。
「うちの終戦は8月30日なんです」
「忘れないことが若者の責任」
被爆から81年が経過し、語り部活動を行う竹本さんのもとには、多くの若者や子どもたちが耳を傾けています。

会場では真剣なまなざしでメモを取る若者の姿や、竹本さんの被爆体験をテーマに夏休みの自由研究をまとめた小学生の姿も見られました。
会場にいた20代の男性は、「しぶとく覚え続けていることが若い人間としての責任ですし、僕自身の仕事だと思っています」と話しました。
原爆に興味がない人にも

自由研究に取り組んだ小学6年生の越智桃花さん(11)は、毎年、竹本さんの証言を聞きにきています。
「原爆に興味がない人にも読んでもらって、原爆のことを知ってもらいたいです」
そんな思いから、自由研究をまとめました。
自分の経験に関心を持ち、真摯に向き合う子どもたちの姿に、竹本さんは「1人でも2人でも覚えていてくれたら本当に嬉しい」と目元を緩めます。
「人を憎まず、隣の人を愛しましょう」

被爆から81年。竹本さんは、証言の最後には次の言葉で締めくくります。
「**人を憎まず、隣の人を愛しましょう。**笑顔で語らいましょう、ねぎらいましょう。****ここに集まった人たちだけでも、穏やかな気持ちになってほしい」
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