シリーズでお伝えしているヒロシマの記録。被爆から80年が経つことし、原爆資料館で長年写真が展示されている少女の「その後」が明らかになりました。初めてメディアに口を開いた息子は、母への思いを語りました。
原爆資料館に展示されたきょうだいの写真。当時9歳の池本アイ子さんと7歳の徹さんです。
「おかあちゃんだ」。写真を見て、そうつぶやいたのは、アイ子さんの息子の山澤寛治さん(64)です。
幼いきょうだいの写真は放射線被害を訴える象徴的な1枚として、少なくとも30年前から原爆資料館に展示されています。山澤さんがリニューアル後の原爆資料館で母の写真を見たのは、これが初めてでした。
山澤寛治さん
「母親だからと教えてもらっているからあれですけど、そこまで実感がわかないというか。どうしても一人の少女という目で見てしまいますね」
2人は爆心地から1キロで被爆。命は助かりましたが、数日後に異変がありました。アイ子さんの両親が30年前のRCCの取材に答えています。
母・池本タメ子さん
「4、5日してから髪が抜け出して。あまりに抜けるから『抜けるだけ、抜け』っていったら、全部ないなった」
歯ぐきからの出血や発熱も…。放射線による急性障害でした。受診した日赤病院で、この動画も撮影されました。その後、2人は回復したようにみえましたが、被爆から4年後、徹さんは突然体調を崩し、11歳で亡くなりました。
アイ子さんは基町高校に進学。就職した会社の同僚だった男性と22歳のときに結婚しました。
母になったアイ子さんと、まだ1歳にも満たない山澤さんです。
山澤寛治さん
「母親との接点とかああいったものが僕の心の中に残っていないので。母親のおばあちゃんに言われたのは耳が似ていると」
アイ子さんは、山澤さんが5歳の時に29歳の若さで亡くなりました。被爆から20年が経っていました。山澤さんの記憶に残るアイ子さんの姿は、亡くなる前後のほんの一部のみです。
山澤寛治さん
「みんなで正月…集まるじゃないですか。父親が病院に行こうといってまぁ具合が悪かったんでしょう。薄暗くて静かにしとけと言われてあんまりおりたくないような甘えられるわけもないし」
アイ子さんは足が腫れて膿が出るなどの症状があり肉腫と診断。1年以上の闘病を経て、亡くなりました。
山澤寛治さん
「保育園に行った時に、僕が先生に『おかあちゃんが出るときは大きい箱に入って出ていったけど帰ってきたら小さな箱になって帰ってきたんよ』と言ったと言われたですね」
アイ子さんが亡くなってすぐに新しい母親が来たこともあり、山澤さんは父親や家族から母・アイ子さんの話を聞くことがほとんどありませんでした。新聞などで姉弟の写真を目にすることも嫌だったといいます。
山澤寛治さん
「資料館にしても新聞にしてもなんか嫌じゃったですね。みんなの目にさらしものじゃないけど、されているような気がしたので」
気持ちに変化があったのは去年9月…。RCCが取材を申し込んだことで母・アイ子さんについて改めて考えたと言います。そばに居た4歳の孫に、母を亡くした幼い自分を重ね合わせました。
山澤寛治さん
「子どもがいるのに亡くなっていく。ものすごい辛かったんじゃないかなという気持ちがわかったですね。封印といったらおかしいが言ってもいけない…(育ての)母親もいい気がしないですよね。父親も喋らない、私も聞かないというのがずっと続いて。いまこうやってインタビューに来られて改めて考えて、そういや何にも残ってないんじゃないかと」
山澤さんの元に残る1冊のアルバム。
記者
「大事に記録されていますね」
山澤寛治さん
「たぶん母親が書いたんじゃないかなと思うんですがね」
アルバムのページは、山澤さんが2歳のころで止まっています。
山澤寛治さん
「ここまで。ここらはもう書いていない」
記者
「もしかしたら体調が…」
山澤寛治さん
「悪かったんじゃないかと。僕からしたらもっと2人がうつっとる写真があってもええんじゃないかなと…。」
2人で写る写真はこの1枚だけです。
山澤寛治さん
「分かることがあれば教えてもらいたいのもあるし、知っていかないといけんと思うけど、周りがもうおらんということですね。自分も母親に愛されとったんじゃないかと思うんですけどね。その確信というか、『あんたはこうじゃった、ああじゃった』というのが今分からん」
山澤さんが知りたいのは、アイ子さんの被爆者としての話ではなく、幼い自分と過ごした母親としての姿です。
山澤寛治さん
「大体月1を目安に来ています」
1月21日、アイ子さんの60回目の命日を迎えました。
山澤寛治さん
「今年も頑張るけえ、よろしゅう見とってください、ということで。」
アイ子さんをよく知る家族や親戚も、今はもう同じ墓で眠っています。
山澤寛治さん
「原爆がなければ人生も変わってたと思うんですよね。いまもっともっと母親のことを知りたい。教えてくれる人もいないんですけどどうだったのかなと。」
「もっと早く聞いていれば」と、悔いも残ります。
あの日を生き抜いて大切な家族と過ごした記憶。60年経って初めて見えた、少女の「その後の人生」です。
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