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核兵器廃絶を訴え続ける「日本被団協」がノーベル平和賞に選ばれ、授賞式が10日、ノルウェーの首都・オスロで開かれました。核兵器が非人道的と言われる理由の一つが、被爆者の体を蝕み続ける放射線被害です。
被爆から、数ヶ月後、広島市内の救護所には、突然体調を崩した被爆者が大勢運ばれてきました。

爆心地から2.4キロ離れた広島市西区にある大芝国民学校(現・大芝小学校)。原爆投下後、かろうじて倒壊を免れた校舎は、臨時の救護所になりました。
1945年10月に撮影されたフィルムには、救護所だった大芝国民学校の様子も記録されています。

フィルムはある親子の姿が捉えられていました。
竹内ヨ子コ(よねこ)さん(当時31歳)と、その横に横たわる髪の毛が抜けた少女は、当時12歳だった娘の陽子さんです。
陽子さんは、爆心から1キロの自宅で被爆し、倒れてきた冷蔵庫で大ケガをしていました。その後、頭髪が抜けるようになりました。

母親のヨ子コ(よねこ)さんは無傷でしたが、ひと月後に発病したといいます。
2人とも、放射線による影響だとみられます。看病していたのは、長男の信之さんです。1995年、私たちの取材を受けてくれました。
竹内信之さん(1995年取材)
「治ると思っとったけぇね。外傷がないからお母さんは。大丈夫じゃ思っとんだんじゃけど…」

「頭髪は抜け、糸のように痩せた腕に 土間へ横たえている12歳になる女の子に、今日はとても心引かれる」
2人を撮影した山中真男カメラマンは、そのときのことをこう書き残しています。そして、こう綴りました。
山中カメラマンの日誌より
「『助かりますか』案内の医師に聞いてみた。我が児に比べて不憫が胸いっぱいに込み上げてきた。『アメリカのチクショー奴(め)。この親子をどうか助けてやってください』と神に祈って帰る」
2人を看病していた信之さんによりますと、その後、ヨ子コさんは、うわごとを言うようになったといいます。

竹内信之さん(1995年取材)
竹内信之さん(1995年取材)
「うわ言を言うたんですよ。『あー、船が着いたでー』って。『はよ降りにゃいけん』とか。能美島の方へ行った夢見ていたのか。『みかんがようけなっとらー』みたなことを言ってね。おかしいこと言うなと思っていたら、あくる日になったらもう…。医者から『ご臨終です』と・・・」
撮影からわずか2日後のことでした。そして妹の陽子さんは、その翌月、母を追うように息を引き取りました。
1995年に取材した際にも、信之さんは、陽子さんの写真を財布にしのばせていました。
8月6日の惨禍を生き抜いた人たちが、何日も後になって体調を崩し息絶えていく。こうした悲劇は後を絶ちませんでした。

あれから79年が過ぎ、大芝小学校には、元気な子どもたちの声が響きます。学校の社会科資料室には、小学校が救護所だったことがうかがえる資料も残っています。
来年100周年を迎える大芝小学校。それを機に、子どもたちが学校や地域の歴史を調べています。この日も、5年生の児童が社会科資料室に来て、原爆の被害について調べていました。
大芝小学校 粟村美苗校長
「いま子どもたちが楽しいと思えること、地域の自慢がいっぱいあるということは、平和だからこそ。大芝小学校の歴史を知った上で、自分たちにできる平和の大切さの訴え方を、広めていってくれたら」
ヒロシマの記録は、次の世代へと紡がれていっています。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
放射線の被害は、いまもなお被爆者の体を蝕み続けています。日本被団協の代表委員を務めた故・坪井直さんは「原爆の最大の被害は、たとえ生き残っても精神的そして身体的な人間破壊が生涯続くことだ」と訴えていました。
授賞式に出席した日本被団協のメンバーもまた、放射線の被害に苦しめられています。
原子爆弾、核兵器は、1発で街を破壊する「ただ威力が大きい爆弾ではない」。そのこともまた、伝え続けていかなくてはいけません。
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