広島県福山市のJR福山駅そばに立つ福山城-。1622年に初代福山藩主・水野勝成(1564~1651)が築城しました。その城内に築城時から伝わるのが、京都・伏見城から移築されたと伝わる、伏見櫓=国重要文化財=です。市は2月、同城を調査したところ、国宝化への糸口となる痕跡を見つけました。

福山城

2022年に築城400年を迎えリニューアルした福山城。かつて木造だった天守は1945年8月の福山空襲で焼失し、1966年には鉄筋コンクリート造で再建されています。一方、三重三階の伏見櫓は焼失をまぬがれ400年前の姿を現代に残しています。

伏見城の廃城に合わせ、松ノ丸曲輪にあった櫓を、2代将軍・徳川秀忠から勝成へ下賜。築城中の福山城に移築されました。その証拠として、櫓の梁に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が刻まれていることが1951~54年の解体修理で見つかっています。

伏見櫓の国宝昇格を目指し

伏見城の調査結果が示された報告会

福山市では2018年から、伏見櫓などの国宝昇格を目指しています。2026年2月12、13日には、現在、明治天皇陵となっている伏見城跡(京都市伏見区)で、一帯を管理する宮内庁の立ち会いの下、痕跡調査を実施しました。

その報告会が2月22日、広島県立歴史博物館(福山市)であり、歴史ファンら約200人が聞き入りました。

榊 拓敏 文化財担当課長

説明に立った、福山市文化振興課の榊拓敏・文化財担当課長は「陵墓が造営された大正元年から100年以上の時間が経過しており、普通の山に戻ろうとしている状況だが、城郭・伏見城であった時の名残を各所に残す」と語りました。

3段階に分けられる伏見城

実は、伏見城は大きく3段階に分けられます。
▽豊臣秀吉が「指月の丘」に築いた伏見城
▽1596年発生の大地震で倒壊したのを機に、秀吉が場所を移して伏見山に再建した伏見城
▽1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦で焼失後、徳川家康によって再建された伏見城

若林正博 京都学推進課長

福山城に移築された櫓は伏見城の松ノ丸曲輪に存在していたとされています。報告会で伏見城について講演した京都学・歴彩館の若林正博・京都学推進課長は、曲輪はその前哨戦を目撃した寺の僧侶の日記を基に、焼け落ちて家康によって再建されたと指摘しました。

福山市は、松ノ丸曲輪がたどってきた経過については先行研究も踏まえ「今後調査していきたい」とします。

確認できた「伏見城の名残」

伏見城跡で見つかった伏見櫓の櫓台と酷似した地形

今回、確認できた「伏見城の名残」は、松ノ丸曲輪の北東隅に櫓台とみられる地形が挙げられます。地形は袴のような台形をしており、この石垣と、市が事前に計測していた福山城伏見櫓の石垣部分の裾の長さを比べると、酷似していたというのです。

また石材などを抜き取った痕跡ともみられるえぐられた部分もあったことから、榊課長は「伏見櫓の石垣も伏見城から移築された可能性も十分にある」と指摘しました。

何らかの石材が抜き取られたと推測される跡

この他にも一帯からは福山城筋鉄御門=国重要文化財=などのような何かしらの門があったことを示す礎石も確認されました。

榊課長は「断定することはできないが」としつつも「伏見櫓のほか、福山城に移された建造物の名残が松ノ丸曲輪の中に留めている可能性がある」と話しました。

福山市は2026年度、曲輪の測量調査を実施していき、伏見城からの移築を裏付ける作業を行っていくということです。

福山城に移築した理由は

伏見城参考図(若林課長提供)

なぜ伏見城の建造物を福山城に移築しなければならなかったのでしょうか。京都学・歴彩館の若林正博・京都学推進課長は徳川2代将軍・秀忠による大名の再配置事業と関連があったと指摘します。

秀忠が政権を掌握したと広く示すために、家康の一周忌に当たる1617年に西国大名の再配置を行い、播磨国(現兵庫県)まで譜代大名を置きました。ここが当時の譜代大名の西端でした。

さらに2年後の1619年に、安芸・備後を治めていた福島正則を改易し、備後に譜代大名である水野勝成を入れ、譜代大名の治めるエリアを西に延ばしたのです。

当時、伏見城は「天下人の城」という権威があったため、秀忠はこの一連の処置を江戸城ではなく、伏見城から行ったとみられています。

若林課長は「水野勝成は譜代大名の象徴として福山に入っていた。天下人あるいは幕府の基盤を固めた城郭の建物が福山に来ていることは非常に重要な事実だ」と指摘しました。