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「こんな思いを誰にもさせてはならない」ノーベル平和賞受賞の「日本被団協」 68年前の結成時を知る97歳の被爆者

日本被団協のノーベル平和賞授賞式が10日、ノルウェーの首都・オスロで始まりました。日本被団協は原爆症や差別、貧困に苦しむ被爆者たちの切実な声から68年前に誕生しました。結成当時を知る97歳の被爆者を取材しました。

被爆者、阿部静子さん(97)。広島市の高齢者施設で暮らしています。ノーベル平和賞を受賞する日本被団協の結成当時を語ることができる数少ない生存者です。

阿部静子さん
「(平和賞は)びっくりするやら嬉しいやらでちょっと嬉し涙が出ました。しかし、ゆっくり考えてみたら喜んでばっかりいられない賞のような気がします。核兵器が使われるかもわからない危険を感じてる時に、手放しでは喜んでおりません。いよいよ益々しっかりしなきゃいけないと考えました」

阿部さんは結婚して間もない18歳のとき、爆心地から1・5キロで被爆しました。空襲による火災が広がるのを防ぐために、建物を取り壊す作業をしていて、屋根の上にいました。

原爆の熱線で、顔や右半身に大やけどを負いました。戦後も、手や顔はケロイドで引きつり、差別にも苦しみました。

阿部静子さん
「(辛かったのは)顔に傷を受けたことです。その色が若い時ほど醜くて、傷がひどくて苦しみました。近所の心ない青年たちが『赤鬼、赤鬼』とはやし立てますし、とても悲しかった。とても情けなかったです。何度も死にたいと思いました」

外出を避け、うつむいて暮らしていたという阿部さん。阿部さんと同じように、当時、被爆者たちは原爆症や差別、貧困に苦しみながらひっそりと生きていました。

1955年 初めて被爆者の訴えが世界に

流れが変わったのは、被爆から10年後の1955年。アメリカの水爆実験で「第五福竜丸」が被ばくしたことをきっかけに、第1回「原水爆禁止世界大会」が開かれました。

被爆者の訴えが初めて全国、そして世界に向けて発信された会議には、阿部さんも出席していました。

第一回原水爆禁止世界大会での被爆者の訴え
「今後どうして生きようか、そんなことを考えると今のうちに死んでしまいたいとおっしゃいます。でもあたしたちが今死んでも、この原爆という恐ろしいことを世界中に誰が知らせてくれるんでしょうか」

阿部さんは、声を上げ始めた被爆者たちとともに、被爆者の援護や原水爆禁止を求めて国会に請願をしました。

阿部静子さん
「10年間もほっとかれたんですよ、あの未曾有の大災害があって、怪我人は大怪我をして、体は弱いし苦しんで、お金はないし、慰謝料もかかられず、10年間も苦しみ、あげく陳情に行ったわけです」

そこで、後に総理大臣となる広島選出の池田勇人議員からこう言われたといいます。

阿部静子さん
「『日本はアメリカに弱いからね』とおっしゃいました。アメリカに気兼ねをして我々を今まで放置されたんかと思ってむっとしました。今度いらっしゃる時は、組織を作っていっしゃいと知恵を授けてくださった。バラバラで行ったのでは力がないから」

被爆者の願いを集め、日本被団協が誕生しました。

「どうぞ親からいただいた体を、そのままで年を重ねていって」

阿部さんは、積極的に証言活動もしてきました。手元に置いている1冊の分厚いノート。これまで被爆体験を語った相手の名刺やハガキが大切に貼ってあります。

阿部静子さん
「澄んだ眼で、綺麗な肌で私の話を聞いてくださるんですよ。この人たちが私のような醜い姿にならないように、どうぞ親からいただいたその体を、そのままで年を重ねていっていただきたい」

ノーベル平和賞を受けて改めて、受賞の重みと責任を感じているといいます。

阿部静子さん
「長年証言を続けて訴えてきましたけれど、被爆体験があんまり日本も、世界の人たちに届いてないと思うんですよ。やっぱり被爆者の責任です。もう少し世界の人たちにも広島の惨禍を伝えるべきだ思いました」

97歳の被爆者はこれからも平和を訴え続けるつもりです。

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