一年間に亡くなった被爆者の名前が記される「原爆死没者名簿」は、毎年広島の原爆の日・8月6日に平和公園の慰霊碑に納められています。これまで名簿の記帳は被爆者が担ってきましたが、ことしは被爆者の高齢化のため、初めて記帳者の公募が実施されました。公募に選ばれた記帳者の思いを取材しました。

公募に選ばれたのは、16歳から70歳までの14人。その一人、広島市に住む寺尾一弘さん(59)が応募したきっかけは、被爆者の父・興弘さんとの別れでした。

寺尾一弘さん
「父の活動を手伝おうと、昨年4月に引っ越して県外から戻ってきたんですけれども、父がその後10月に亡くなりまして」

一弘さんの父・興弘さんは、趣味のステンドグラスで作った原爆ドームと産業奨励館(被爆前)を並べて展示し、被爆前の姿を知ってもらう活動をしていました。

応募のきっかけは“父との別れ” 被爆者の父が原爆ドームに込めた思いとは

戦前、産業奨励館から300mの本川町に住んでいた一弘さんの父・寺尾興弘さん。自宅からは産業奨励館のドーム屋根部分が見えていました。しかし1945年7月、興弘さんは「父・元一さんが戦死した」との知らせを受け、爆心地からおよそ4kmの旧祇園町に疎開し、8月6日を迎えます。

寺尾興弘さん(2015年取材時)
「本当に奇跡、2週間前に偶然疎開して助かった。知っている人は皆亡くなっているから、逃げて助かったような気持ちを先では思う。そういった後ろめたさもあった」

命は助かったものの、終戦後は苦難の連続だったといいます。興弘さんは悩み事があると川の対岸から原爆ドームを見つめ、父親の姿を重ねたそうです。

興弘さんは定年退職後、趣味のステンドグラスを使って原爆ドームの模型を完成させました。しかし、傷ついた原爆ドームの姿を見続けているうちに、今度は「生前の元気な父を偲ぶには立派だった産業奨励館を作りたい」と思うようになりました。

寺尾興弘さん(2015年取材時)
「難易度が高いから1年以上は躊躇した。だけど、どうしても原爆ドームが父親に見えてきたから、3歳半で別れた父親を再現したかった。私には産業奨励館が、父親がどんと立っている姿に見えるわけです」

興弘さんがよみがえらせた産業奨励館。原爆ドーム前で展示すると、いつも年齢・性別・国籍を問わず、多くの人が集まっていました。

「運命だと思った」父の名前が刻まれる年に記帳者を初公募

ボランティアガイドとして原爆ドーム前に立つ父・興弘さんを手伝おうとした矢先の別れ。息子の一弘さんは、何かできることはないかと考えていたときに「原爆死没者名簿の記帳者を公募する」というニュースを目にします。

寺尾一弘さん
「毎日心に穴がぽっかりと空いたような時期をずっと過ごしていた中で、記事を目にした。被爆者の父が亡くなって父の名前が刻まれるその年に、初めて一般市民から公募をする。これは1つの運命だなと思いました」

「書いていくうちに…」迎えた初めての記帳日

一弘さんはすぐ公募に申し込み、記帳者に選ばれました。迎えたはじめての記帳を「実在されていた方のお名前を書くことに対して、半端ない緊張だった」と振り返ります。

記帳する寺尾さん

寺尾一弘さん
「年齢も父に近い、もしくはもう少しお年を召した方で、書いていくうちにこの人たちはみんな被爆者なんだなと思って」

一弘さんは「おひとりおひとりに色々な人生があったと思うと、筆がなかなか進まないと言うか、一般にお習字をしているような気持ちではできなかった」と話します。

寺尾一弘さん
「でも、高齢の方のお名前を書いた時は『よく頑張って来られたんだな』と、つくづく感じました」

「これまで感じてきた思いを」記帳者には高校生も

記帳者には寺尾さんのほかにも13人が選ばれています。そのなかには高校生も3人居ます。

ノートルダム清心高校2年 石丸陽菜さん(17)
「これまで被爆者の方が務められていた記帳者という役割を、新しく選ばれた私たちに任せていただけることは責任あることだと思っています。これまで自分が平和活動を通して感じてきた思いを、おひとりおひとりの名前に込めながら書きました」

一番手前の女性が石丸さん

原爆死没者名簿の記帳は来月5日まで続けられ、平和記念式典で原爆慰霊碑に納められます。