元「TOKIO」の山口達也さん(54)が16日、広島市で講演しました。華やかな活躍の裏で抱えていた「孤独」や「不安」。「アルコール依存症」について自身の経験を語りました。山口さんがアルコールに初めて触れたのは、他の多くの人と同じく、成人の節目でした。
(全5回の2回目/【「お酒をやめた」と言えない アルコール依存症のリアル 「広島の空港で飲んでしまうかもしれない」その意味は】から続く)

山口達也さん
「二十歳になったとき嬉しかったですよね。お酒飲む人『うわ、酒が飲める』って思いましたよね」

酒が強くなることへの憧れ。「強いね」と言われることへの誇らしさ。友人関係が広がる楽しさ。山口さんの20代は、アルコールとともに充実していました。

山口さんは「もっと強くなりたかった。酒が強いことは褒め言葉だと思っていた」と当時を振り返ります。

飲めない人に対して「人生の半分損してるね」と、“アルコールハラスメント”をしていたこともあったと打ち明けます。

「飲む時間がどんどん長くなっていきました」

山口達也さん
「お酒が飲めるというだけで、すぐに友達になれた。リラックス効果もあって、緊張をほぐすために酒の席は大活躍でした」

そう語る山口さんは同時に「そもそも使い方を間違っていた」とも指摘しました。

心を落ち着かせるための鎮静剤であるはずのアルコールを、盛り上がるための興奮剤のように使っていたのです。

30代に入ると、仕事の忙しさとともに飲み方が変わっていきました。

山口達也さん
「毎日のように飲んでいました。そのうち飲み会の前に家で飲み始め、帰宅後も寝るギリギリまで飲む。飲む時間がどんどん長くなっていきました」

仕事も順調…だからこそ“家飲み”が快適な逃げ場に

飲み会の1時間前に家でビールを一杯。それが習慣になり、やがて焼酎に手が伸びました。

「酔いが始まったぐらいに乾杯になるからちょうどいい」。そして店ではラストオーダーで「焼酎のダブルを5杯ください」と注文する。

山口さんは「帰りまでの1時間の間に自分の前からお酒がなくなるのが、何か寂しい」という感覚だったと話します。

35歳から40歳にかけて、山口さんは仕事も順調でした。日曜日夜の番組や、朝の情報番組など、複数の番組で司会を務めていました。

それでも、あるいはだからこそ「家飲みは快適な逃げ場になっていった」と言います。

山口達也さん
「財布も携帯も鍵もなくさない。シャワーを浴びてパンツ一着で飲める。眠くなったら寝ればいい。独り飲み、家飲み最高と思っていました」

「パンツ一着で飲んでいたんです」

飲む酒も、コンビニで買える1.8リットルの紙パック焼酎に変わっていきました。「コップも汚れない」と、ラッパ飲みを「効率がいい」とさえ考えていたといいます。

しかしついに、近くのコンビニへ1人で焼酎を買いに行ったことを翌朝覚えていない--という事態が起きます。

山口達也さん
「気は失ってないんですよ。自分が買いに行っているんだから。でも意思が働いていないんです。でもその当時はやばいと思わなかったわけですよね。自分はそういう飲み方であると。そんなことよりも、やばいことがあるんです。そう。パンツ一着で飲んでたんです」

パンツ一丁で飲んでいたにもかかわらず、週刊誌に撮られなかったのは、無意識のうちに服を着て、帽子をかぶり、買いに行っていたからだろうと、山口さんは当時を振り返ります。

山口達也さん
「家の正面、裏側、いろんなとこに週刊誌の車がいつも止まっていました。つまりどういうことかっていうと、飲んでいるときはちゃんと意識があって、記憶が飛んでいるわけじゃないですよね。飲んだ直後はただ忘れていっているだけで、ちゃんと服を着て、上着着て、帽子かぶって、なんとなくマスクして、買いに行って、また服を脱いで寝るわけです」

ガンマGTPの数値が2000近くに達していた時期もありました。これは、正常値の数十倍であると山口さんはいいます。

それでも「体はどこも痛くも痒くもない」という感覚が、飲み方の異常さに気づくことを妨げていました。

山口達也さん
「今思えばこの頃すでに依存症だったと思います。でもそのときは全然分からなかった」

そして山口さんは自ら、“不祥事”と“飲酒運転事故”を招くことになります。
(3回目【「お前は地に落ちたんだ」 仕事も仲間も信頼も全てを失った“不祥事” そして「本当の転機」となった“飲酒運転事故”】に続く)