「恋をさせてあげたかった」。仏壇に手を合わせた90歳の男性がふと漏らした言葉です。見つめる先には、少女の遺影がありました。当時17歳だった姉です。たった一発の原子爆弾によって奪われた命の一つです。

NPT(核拡散防止条約)の再検討会議が27日、アメリカ・ニューヨークの国連本部で始まりました。核軍縮や不拡散を巡る情勢が厳しさを増すいまだからこそ、RCCのアーカイブに残る被爆者の声を届けます。

足を止めた先にはボロボロになったブラウス

大本久夫さん(2021年取材)

2021年2月。広島市中区の原爆資料館に杖をつく音が響きます。14歳で被爆した大本久夫さん(当時90歳)です。

ゆっくりとした足取りを止めたのは、ボロボロになったブラウスの前。大きく破れ、かすり模様は焼け落ちています。

当時17歳だった姉の利子(としこ)さんが、身につけていたものです。

大本久夫さん(2021年取材)
「なんであんたは、若いのに苦しまないけんかのって思って。なんで、あんたじゃったんかのう」

「ガキ大将を追っ払ってくれた」頼りになる姉

幼少期の久夫さん(左)と利子さん

広島県廿日市市に住む久夫さん。利子さんの遺影がある自宅の仏壇には、毎日手を合わせています。3つ年上だった利子さんは、頼りになる姉だったといいます。

大本久夫さん(2021年取材)
「私がどちらかというと、気の弱いほうで、よう泣かされていたんですよね。そんときにいつも姉が助けてくれよったんですよ。悪いガキ大将を追っ払うのは姉じゃったですからね」

頼もしい利子さんは、髪にパーマをかけて、おしゃれ好きでした。

しかし、1945年8月6日─。その生活は一変します。

帰ってこない姉 市内中を探し回り

女学生のときの姉の利子さん

利子さんは、建物疎開の現場へ向かう途中、爆心地から約1.7キロの比治山橋(現・広島市南区)で被爆しました。

久夫さんは、帰ってこない利子さんを心配して父親たちと一緒に、市内を探し回りました。数日後、横たわっている重傷者たちの中から、利子さんを見つけました。

大本久夫さん(2021年取材)
「名前が書いてあるのもあった。『としこ』というのがあって、『お姉ちゃん、としこ姉ちゃん』って言うたら、かすかに、かすかに首をふった気がしたんですよ」

全身大やけどで、顔は腫れあがり、髪の毛も無くなっていました。

家中に響き渡る悲鳴 怖くて逃げた…「せめてそばに」

利子さんが身につけていたブラウス(寄贈:大本徳夫 所蔵:原爆資料館)

原爆投下から10日後。利子さんを可部(現・広島市安佐北区)の疎開先に連れて帰ることができました。

しかし、薬はなく、すったキュウリをうどん粉にまぜて傷口に貼るだけ。取り換えるたびに、利子さんの悲鳴が家中に響き、怖くなった久夫さんは、家の外に逃げたといいます。

大本久夫さん
「叫びあげる、死に物狂いで叫ぶ。それはもう言語に絶する声なんで。きょうだいが苦しみよるのに、それを怖いといって家の外に逃げたのが、本当にみじめで、姉に申し訳なくて。

せめてそばにおってあげたかった、姉のそばにですね…」

「私は死なないといけない」

大本久夫さん(2021年取材)

想像を絶する痛みに耐える利子さんが久夫さんにかけた言葉があります。

大本久夫さん
「自分が醜くなっているのを分かっていますからね。だから、『久夫さんの嫁さんが来んようになるから、私は死んでいかないけん』って言いましたよね。

ほんと、せつないです」

原爆投下から2か月後、利子さんは息を引き取りました。いまでも姉が生きていてくれたらと思い続けています。

「恋をさせてやりたかった。これが一番でしょうね」

「お姉ちゃんの死 無駄にしないからね」

時間を見つけては利子さんに会いに行っていた久夫さん

2019年にリニューアルオープンした原爆資料館。利子さんのブラウスは常設展示となりました。ただ、傷ついた遺品を後世に残すため、展示は定期的に入れ替わります。

利子さんのブラウスも、2021年2月23日を最後に、一度、収蔵庫に戻ることになりました。時間を見つけては、何度も資料館に足を運んでいた久夫さん。このときも、展示が入れ替わる前に、利子さんに「会い」に来ていました

大本久夫さん(2021年取材)
「(ここに来ると)ほっとするというか、落ち着くつくいうか。連れて帰りとうなる」

展示されたブラウスを見つめ、利子さんに語りかけます。

大本久夫さん
「お姉ちゃんのね、死は決して決して無駄にはせんからね。世界の平和のため、地球の平和のためにね。おねえちゃんの情報は、発信されていくから。無駄じゃないよ」