戦艦「大和」の沈没から、4月7日で81年。慰霊碑がある呉市の旧海軍墓地で開かれた追悼式には、福岡市から初めて参加するという親族も参列し、犠牲になった乗組員を悼みました。
遺族のほか、呉市や海上自衛隊などの関係者らおよそ200人が参列した追悼式。遺族の高齢化が進む中、参列者の中には乗組員の孫の姿もありました。
1941年、呉海軍工廠で建造された戦艦「大和」。当時世界最大の戦艦で「不沈艦」とも呼ばれていましたが、1945年4月7日沖縄に向かう途中、アメリカ軍機の攻撃を受け九州南西沖で沈没。乗組員3056人が犠牲になりました。
「81年ぶりに戦友と会わせようかと」福岡市から初めて参列

追悼式が始まる前に、「戦艦大和戦死者之碑」のそばで、ある乗員の名前を探す親族がいました。この日初めて追悼式に参列した、福岡市在住の大田宗照さんです。
福岡市から参列した遺族 大田宗照さん
「(名前が)ありました。よかった。大田猪太郎です。ここにあってよかったです。しっかり手を合わさせていただいて。何だか実感がわきました」
太田さんの叔父・大田猪太郎さん。22歳で戦艦「大和」に乗船し、81年前のきょう「大和」と運命を共にしました。太田さんが持参した猪太郎さんの位牌(いはい)には「昭和二十年四月七日 西部太平洋方 軍艦大和ト共二」という文字が刻まれています。
大田宗照さん
「字がかすれちゃって見えにくいんですが…。仕事の関係や遠方ということもあり、なかなか来ることが出来ませんでしたが、81年ぶりに戦友と会わせようかと思い、位牌を持ってきました。やっとここに来ることができたという感じです」
22歳で戦死…「若い。若すぎますよね」

戦後80年の節目での参列を予定していた大田さん。自身の入院のため遠征が叶わず、今回の参列となりました。追悼式を前に会ったという、広島在住の娘は、孫に“大和”という名前をつけたのだといいます。
大田宗照さん
「『もう絶対につける』と娘が旦那さんに言って。“大和”と名付けたそうです」
取材中ふと、乗組員の遺族が大田さん夫婦に話しかけました。
乗組員の遺族
「22歳か、こりゃ若い。こっちは27歳だよ」
大田宗照さん
「それでも若い。若すぎますよね」
乗組員の遺族
「孫と同じくらいやな」
大田宗照さん
「皆さん、そうですよね。僕らの孫が22歳に近づきましたからね。(叔父たちは)当時『大和』の中で、知り合っていたのかもしれない」
「壮絶な最期 涙が出た」

式が終わったあと、大田さんは位牌を碑前に置き、手を合わせました。
大田宗照さん
「涙が出ました。壮絶な最期を遂げたというのが、身に染みて分かった気がしましたから。『大和』の写真は家にたくさんありますが、ここに来るとやはり全く身が引き締まる。来られて本当に良かったです。叔父もやっと戦友と会えて喜んでいるんじゃないかと。これを機に、可能な限り毎年参加させてもらおうかと思います」
追悼式を主催する「戦艦大和会」の小笠原臣也会長は、世界で争いが多発するいまこそ、記憶を継承する重要性を感じると話します。
戦艦大和会 小笠原臣也会長
「直接の体験者、それを聞き取ったような二次的な体験者はだんだん亡くなっていく。でも戦艦『大和』が訴えたい教訓を、記録に残したり講演会をやったりして、知らない人に受け継いでいく必要がある。広島や呉に、できれば外国からもリーダーや一般の方がどんどん訪れて、戦争がどういうことをもたらすかということを、いろんな意味で学んでもらいたい」








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