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「わたしは姉を見殺しにした…」。生涯、悔い続けた男性がいます。「待ってて、今、助けてあげるから」と姉に言ったはずだったのに…。自分は、自分が助かりたいために母を背負って逃げたのか…。被爆から50年が経った1995年のある日、その男性は、証言を静かに始めました。
被爆から80年となった2025年が暮れようとしています。しかし、日本国内では緊迫する世界情勢に、長年守られてきた「非核三原則」の見直しや、「核兵器を保有するべき」といった声まで聞こえてきます。80年前、広島で何が起きたのか。RCCのアーカイブから、いま伝えたい被爆者の声です。
家族にも語らなかった被爆体験

治療を受ける松下ひささん(1945年 提供:日英映像)
原爆が投下されて2か月後に撮影された映像に、広島逓信病院でガラスが突き刺さった目の治療を受けている女性の映像が写っています。幟町(現・広島市中区)の自宅で被爆した松下ひささんです。
ひささんの次男・高倉光男さんは、家族の被爆体験を50年間、誰にも語りませんでした。家族にさえも。
1945年8月6日。原爆が投下されたとき、幟町の自宅には光男さんと母のひささん、そして2人の姉がいました。ひささんはガラスを浴びて大けがをし、次女の和子さんは建物の下敷きになりました。
「お母さん ここよ」助けを呼ぶ姉の声が聞こえ

高倉光男さん
光男さんは原爆投下の衝撃を「一瞬、体じゅうがムチ打たれたようになった」と表現しました。母のひささんは「あんたたちは大丈夫か? 和子はどうした?」と、子どもたちを心配していたといいます。
1人、木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなりました。中学生の光男さんは姉を助けに向かいました。
すると、「ここよ!お母さん助けて!」と姉の声が聞こえました。しかし、2階建ての家がつぶれ、大きな梁が落ちていてました。
「姉を見殺しにしたことは事実」 その弟は…

姉の和子さん
木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなりました。当時中学生だった、弟の光男さんは助けに向かいましたが…。
高倉光男さん
「中学生が動かせるはずがありません。微動だにしません。それでも、泣きながら『待ってて、今、助けてあげるから』と。ふと気がついたら、まわりに火の手が上がっていた」
このままではみんな焼け死んでしまう。光男さんは、姉の和子さんを残し、重症の母・ひささんを背負って必死で逃げました。
高倉光男さん
「お母さんを助けるために姉を見殺しにしたことは、母には死ぬまで言いませんでした」
母のひささんは、娘・和子さんの最期の様子を知らぬまま、1982年に亡くなりました。
「自分が助かりたいから母を背負って逃げたのか…分からない」
高倉光男さん
「わからないんです。姉さんを助けたい。おふくろを助けるのが大事なのか、自分が助かりたいためにおふくろを背負って姉を見殺しにして逃げたのか。
でも私は、『お母さん、助けて』という姉を見殺しにしたことは事実です。だから、しゃべりたくないんです。だから、原子爆弾のことを思い出したくないの。誰にも言いたくないの。言うと悲しくなって、涙が出て。今でも…言えません」

高倉光男さん(1995年)
光夫さんは、「今後、原爆でこういうふうなことはあったら世界中、同じようなことがどこでも起こるんじゃないかと思います」といい、「原爆だけがいけないのではない」と力を込めます。
高倉光男さん
「原爆だけがいけないんじゃないと思います。戦争は、なんでもいけません。武器を使う戦争は。小銃であれ、ピストルであれ。原爆がいかんで、大砲がいいなんて、そんなアホなことありますかいな。とにかく武器はいけませんよ。戦争はいかん」
被爆から50年。自分の家族にさえ被爆体験を語らなかった高倉光男さんは、このインタビューの翌年、亡くなりました。
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松下ひさ さんの家族

高倉光男さん

松下ひさ さん
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