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「思い起こせば原爆にやられ…」原爆症に苦しめられながらも撮り続けた「希望」 被爆オリンピアンが写真に込めた思い 孫が伝える“二人展”

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慰霊碑の前で手を組むアメリカ人夫婦。平和大通りで開かれたサーカス。負傷したライバルに肩を貸す選手…。広島市中区のギャラリー開かれている写真展では、戦後間もない広島の「日常」が納められた写真が並びます。撮影したのは、「砲丸王」と呼ばれ、広島で被爆した髙田静雄さん(1909~63年)です。1936年のベルリン五輪に出場したオリンピアンです。戦後は原爆症に苦しみながらも、シャッターを切り続けました。そこには「希望」が納められています。

髙田トシアキさん

「本人が使っていたカメラです。縦で撮るのが好きだったそうです」。写真展を開いた孫の髙田トシアキさんは、祖父が使っていたカメラを手に取ります。20年ほど前から、祖父が残したネガや関連する雑誌、記事を整理し、祖父の足跡をたどっています。

アメリカの選手と肩を組む髙田静雄さん(右)

「当時の世界記録保持者と当時の日本記録保持者」。そう言って見せてくれたのが、アメリカの選手と肩を組む静雄さんの写真です。

静雄さんは、日本記録を3度も塗り替え「砲丸王」とも呼ばれていました。そして、1936年のベルリン五輪に砲丸投げの選手として出場。しかし、そこで世界との差を目の当たりにし、引退を決意したといいます。

その後、いまの中国電力、中国配電に入社しました。

原爆に当時15歳だった長女を奪われ…

「自分が被爆したときはこうやって野良犬のように歩いていたっていうコメントが残っています」。そう言いながらトシアキさんが取り出したのは、原爆ドームをうろつく野良犬の写真です。

1945年8月6日。静雄さんは、爆心地から680メートルの場所にあった中国配電の本店にいました。左肩などを負傷したものの、同僚を助けるため壁をどけるなど救助活動を続けました。

静雄さんが被爆した中国配電

当時、静雄さんは妻と3人の子どもと暮らしていました。しかし、広島女学院に通っていた長女の千鶴子さん(当時15歳)が行方不明に…。

「まずいなくなったことにすごく慌てて、探したらしいです」。

焦土と化した広島の街を、静雄さんは探し回りました。そして、1週間後、ようやく救護所にいた千鶴子さんを見つけました。

千鶴子さん

千鶴子さんは爆心地から約1.2キロ離れた広島女学院のグラウンドで被爆。市内を逃げ回り、治療を受けられると江波(現広島・中区)にあった救護所にたどり着いたといいます。

自宅で療養していましたが、8月24日、息を引き取りました。

原爆症に苦しみ…再起の中で選んだ写真

提供 髙田トシアキさん

失意のなか、戦後、静雄さんの体を原爆放射線が蝕んでいきます。一時は昏睡状態に陥ることもあったといいます。

原爆症の影響で、静雄さんは中国配電を退社。病床に伏せているとき、再起の道として選んだのが、写真でした。

寝たり起きたりを繰り返しながら、息子でトシアキさんの父、敏さんと二人三脚で写真を撮り続けました。

静雄さんの孫 高田トシアキさん
「慰霊碑の前で撮るのが彼のフォーマットだったので、海外から来た人とかを呼び止めて」

髙田トシアキさん提供

その中の一つ、「平和への道」と題された1枚。慰霊碑の前にいるのはアメリカ人夫婦。被爆から12年後に撮影されたこの写真に静雄さんのある思いが込められています。

「悪いのは戦争。戦争が原子爆弾を落としたわけで、アメリカの人が悪いわけじゃない。これからは日本人もアメリカ人も手を取り合って、次の平和へ向かって行くというメッセージを込めて一歩前に出てもらったそうです」

こうした考えは、静雄さんがオリンピアンだったことが根底にあるのではいかと、トシアキさんは話します。

「戦うときは競技なので、勝ち負けはあるけど、それが終わるとみんな仲間である。それがスポーツマンであると」

「スポーツマンシップ」(髙田トシアキさん提供)

広島県内の高校生の陸上大会で、足を負傷した選手に肩を貸すライバル選手。

「スポーツマンシップ」と題された写真には、「肩を貸すのも大事だし、肩を借りる勇気も大事だ」とコメント添えられていたといいます。

「スポーツに恩返しできた」ローマ五輪芸術祭で入選

髙田トシアキさん提供

今回の展覧会には、こうした静雄さんの写真とともに、もうひとつメインに据えたものがあります。静雄さんの肉声です。1960年、ラジオ番組に出演した際の音源です。

静雄さんは、「準備運動」と題された写真で、1960年のローマオリンピック芸術祭で入選を果たしました。この入選を伝える番組に静雄さんがインタビューに答える声が残っていました。

そこには、自身の被爆体験や、原爆症に苦しみながらも、病床で写真の構図を考えたこと、体の調子がいい時を見計らって写真を撮っていることなどが語られています。

そして、「準備運動」の入選でスポーツに恩返しが出来たと語っています。

髙田静雄さん
「不自由な体を引きずりながら、本当の自分のスポーツの使命を果たしたように思われました。思い起こせば、原爆にやられ、身体は不自由なまま引きずり歩き、スポーツの写真については、いろいろ構想を練り、重ね重ねのオリンピック出場については感無量でありまして、なんとも申しようがありません」

展覧会では、インタビュー音声が流れ、それに沿うように静雄さんが撮影した38点が並びます。

高田トシアキさん
「肩肘張らずに撮っていた普段の風景や、逆に写真についての深い造詣、光などを撮っています。本人も原爆で傷ついたので、傷ついたもの、それを助けるものを敏感に捉えていた。暗いだけじゃない、明るい、希望というを撮りたかったので、それを見てほしい」

写真展「キセキー髙田静雄・髙田トシアキ二人展ー」は、広島市中区上八丁堀の「galleryG」で29日(日)まで開かれています。午前11時から午後7時まで(最終日は午後4時まで)。29日には、午後2時からギャラリートークも予定されています。

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