RCC CLUB キャンペーン

「原爆が公園に落ちて…とんでもない」カフェ、映画館に旅館…そこに住む人々 平和公園は広島随一の繁華街だった 足下に眠る「失われた町」の記憶

PR

「原爆が公園に落ちて良かったですね」。広島で被爆した田中稔子さん(86)は海外から広島を訪れた人にこう言われたといいます。「とんでもない」。すぐさま「何も無くなったから公園になったのであって、元々は人々が暮らす町で、映画館もたくさんあった広島の繁華街だったのよ」と伝えました。修学旅行生や国内外の観光客が訪れ、原爆慰霊碑に祈りを捧げる平和公園。天皇皇后両陛下は19日、戦没者の慰霊のために訪問される予定です。静かで緑豊かなこの公園の足下に眠る“失われた町”の記憶です。

平和公園

「私の通った幼稚園はいまの原爆資料館にありました。家は、平和大橋のすぐ近くだったんですね」

広島市に住む田中稔子さんは、当時の地図を見ながら懐かしそうに話します。1938年10月、いまの平和大橋の南側にあった軍用旅館に生まれました。

平和公園周辺の旧中島地区は、北側はカフェや映画館、呉服屋などが建ち並び、南側には、県庁や県病院もあるなど、まさに広島の中心でした。

戦前の中島地区の様子(広島市公文書館提供)

ただ、幼少期の田中さんにとっては“遊び場”だったといいます。

旧中島地区に生まれた 田中稔子さん
「県庁も遊び場で、その頃、戦地へいく看護師さんが県庁に隣接していた武徳殿で、なぎなたの練習をしていた。夜までずっと見ていて、なかなか帰ってこないから、親が大捜索したこともあった」

その県庁の近くにあった与楽園で、ヨモギなどを摘んでお餅を作ったこともありました。

「日本最後の晩をうちの旅館で過ごしていた」

多くの兵士が広島から戦地へ送られた

軍都でもあった広島は、各地から招集された兵士が宇品港から戦地に向かっていきました。その際、宿泊していた旅館の一つが田中さんの実家でした。

幼かった田中さんは、宿泊した兵士からもよく可愛がられたといいます。

田中稔子さん
「兵隊さんにとっては、日本最後の晩がうちの旅館だった。ちょうど私と同じぐらいの子どもを置いてきたりしているんですよ。そうすると自分の子とどもと、重なるんでしょうね、すごくかわいがってくれた」

しかし、その多くの兵士は二度と日本の地を踏むことはありませんでした。

戦況が悪化すると、田中さんの「遊び場」にも変化が…。幼稚園にあった鉄棒やブランコなどの遊具は武器の材料にするため軍に没収されました。

幼少期の田中さん

田中稔子さん
「園庭にひょうたん池っていうのがあって、そこにカメがいた。それを見て静かに遊んでいた。騒いで遊んでいると、その当時は怒られました」

1945年には、空襲に備えて防火帯を作るため実家の旅館は立ち退きになり、親戚の借家へ引っ越しました。

田中さんは小学1年生…。原爆が広島に投下される1週間前のことでした。

「生き残った私が証言しないで誰がする」

田中さんの実家があった周辺=1945年10月撮影 (Nichiei eizo/RCC)

1945年8月6日午前8時15分─。たった1発の原子爆弾は思い出の詰まった場所を消し去りました。

田中さん自身は、爆心地から2・3キロで被爆。引っ越しに伴い転校した小学校へ登校する途中でした。

けがはしましたが、命は助かりました。しかし、中島地区にいた人たちは…。

田中稔子さん
「私の同級生は、幼稚園にしろ生存しているっていう情報がないんですよね。一人も生存情報がないんです。80年経って『あの人が生きていた』って話は聞かない。私は間際に転居した。そのおかげで生き残ったということは、私が証言しないで誰がするんだと」

田中稔子さん

田中さんは、70歳のときから自身の体験を国内外に伝えるようになりました。これまでに訪れた国は90カ国以上にも上ります。
ロシアによるウクライナ侵攻をはじめ世界情勢は混迷を極め核兵器の使用が現実的な危機として存在しています。焦燥感も感じているといいますが…。

「被爆の惨状を伝えていく、下手な言葉でも精一杯、愚直に伝えていくしかない。とにかく自分が覚えていることを話して、少しでもですね。それが抑止力になるか分かりませんけれども、するしかない」

被爆から80年。今回の天皇皇后両陛下の訪問が、もう一度失われた町に思いを馳せ、核兵器廃絶を考える一つのきっかけになってほしいと願っています。

PR

コメント (0)

IRAWアプリからコメントを書くことができます!!

新着記事

ランキング

※毎時更新、直近24時間のアクセス数を集計しています。

PR