「あのとき離婚してくださったらどんなに楽だったか…」
少女の顔のやけどは、やがて皮膚が盛り上がるケロイドとなり、心をも傷つけました。結婚をして子宝に恵まれても、そんな思いを抱えたまま生きてきたのです。原爆による熱線は、生涯刻まれる傷を多くの人に残しました。
ことしのノーベル平和賞に核兵器廃絶を訴え続けている「日本被団協」が選ばれ、その授賞式が10日、ノールウェー・オスロで開かれます。いまだからこそ伝えたい、被爆者の声です。
「女として顔に傷を受けたことです」
97歳の阿部静子さんは、被爆体験の中で1番つらかったことを、こう話しました。
阿部さんは、18歳の時、爆心地から1・5キロの平塚町(現広島・中区)で被爆しました。半袖のブラウスを着て、建物疎開の作業をしていました。
阿部静子さん
「右側から原爆で右半身、この手も焼けて皮膚がべらっとむけて垂れ下がっていました。そういうふうな状況で広島をあとにして逃げていった」
なんとか一命を取り留めたものの、阿部さんの顔にはやけどの傷跡が残りました。
それは、まだ少女だった阿部さんの心にも深い傷を負わせました。
阿部静子さん
「近所の心ない青年たちに『赤鬼、赤鬼』とはやし立てられとても悲しかったです」
当時、新婚だった阿部さん。夫は、その年の暮れに出征から無事に帰ってきました。
ただ、親戚からは離婚を迫られました。
阿部静子さん
「姑さんから、『1人息子の嫁があなたのようなみにくいものを、許すわけにはいかん』と離婚を迫られましたが、夫ががんとして許しませんでした。
惨めな姿で、これでいいんかいね…と思いながら、気を遣いながら過ごして参りました。何度も、死にたい、と、思いました」
連れ添うことを決めてくれた夫との間に、3人の子どもにも恵まれた阿部さん。
しかし、79年が経った今も、心に負った傷は消えないままです。
阿部静子さん
「ありがたいと思うやら、あのとき離婚してくださったらどんなに楽だったか…罰当たりなことを考えたり、いろいろ悩んで参りました」
あの日、強烈な熱線を浴びた多くの人が、こうした心の傷を抱えたまま生きてきたのです。
「こうした苦しみがあることを、自分がいなくなった後も覚えていてほしいー」
97歳となった阿部さんは、体調が許す限り、語り続けるつもりです。
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