RCC CLUB キャンペーン

東洋額装スペシャル「大妻コタカの生涯」 第5話 夢に向かって東京へ

今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。

第5話 夢に向かって東京へ

明治35年。川尻尋常小学校の教員になったコタカさんには、
抑えきれない思いがありました。
「東京へ行って、もっと勉強したい」

家族は反対しましたが、決心は変わりません。
甲山の裁縫学校で教えを受けた、
尊敬する多田道子さんが上京し、
そのあとを二人の同級生が追ったことも、
コタカさんを突き動かしました。

当時、世羅町から最も近い鉄道の駅は、32キロ離れた尾道駅。
自動車はなかったので、駅までは人力車で6時間くらいかかりました。
そこから汽車に乗って神戸で乗り継ぎ、
東京の新橋駅までは一日かかる長い旅だったようです。

持ち前の行動力で家を飛び出したコタカさんが、
真っ先に訪ねたのは多田道子さんでした。
神田の住まいに泊めてもらったのですが、
「このまま甘えてはいけない」と、上野にある叔父の家を頼ることに。
そこに身を寄せて、家事手伝いをしながら、
和裁と洋裁を学べる和洋裁縫女学校に通う日々が始まりました。

実は、数学の教師になりたかったコタカさんは、
東京で物理学校に進むつもりでした。
けれど、周囲に反対され、
「女は嫁に行くのだから裁縫を習えばいい」と勧められたのです。

裁縫学校に通うかたわら教員養成所でも学び、
時間を有効に使おうと、通学路では前を歩く人を追い越していきました。
提出物は、先生に教わった通りの作品だけでなく、
自分で工夫したものも一緒に出しました。
ひと針でも多く縫うことで、技術とセンスを磨いたのです。
並外れた積極性は幼少期に育まれた賜物で、
これこそが、前へ前へと突き進むコタカさんの原動力でした。

当時の写真には、卒業作品として自分で縫った
アフタヌーン・ドレスに身を包んだコタカさんが写っています。

日本の女性が洋服を着ることなど、ほとんどなかった時代です。
のちにコタカさんは、こう語っています。
「最新式の装いで、すましこんで写真に収まる、
度胸の良さに我ながら驚いています」。

道を切り拓いてゆく人には、それくらいの度胸が必要なのでしょうね。

世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。

▶番組ホームページはこちらをクリック「大妻コタカの生涯」を聞くこともできます。

この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。

■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久

■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会

コメント (0)

IRAWアプリからコメントを書くことができます!!

新着記事

ランキング

※毎時更新、直近24時間のアクセス数を集計しています。