今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。
明治35年。川尻尋常小学校の教員になったコタカさんには、
抑えきれない思いがありました。
「東京へ行って、もっと勉強したい」
家族は反対しましたが、決心は変わりません。
甲山の裁縫学校で教えを受けた、
尊敬する多田道子さんが上京し、
そのあとを二人の同級生が追ったことも、
コタカさんを突き動かしました。
当時、世羅町から最も近い鉄道の駅は、32キロ離れた尾道駅。
自動車はなかったので、駅までは人力車で6時間くらいかかりました。
そこから汽車に乗って神戸で乗り継ぎ、
東京の新橋駅までは一日かかる長い旅だったようです。
持ち前の行動力で家を飛び出したコタカさんが、
真っ先に訪ねたのは多田道子さんでした。
神田の住まいに泊めてもらったのですが、
「このまま甘えてはいけない」と、上野にある叔父の家を頼ることに。
そこに身を寄せて、家事手伝いをしながら、
和裁と洋裁を学べる和洋裁縫女学校に通う日々が始まりました。
実は、数学の教師になりたかったコタカさんは、
東京で物理学校に進むつもりでした。
けれど、周囲に反対され、
「女は嫁に行くのだから裁縫を習えばいい」と勧められたのです。
裁縫学校に通うかたわら教員養成所でも学び、
時間を有効に使おうと、通学路では前を歩く人を追い越していきました。
提出物は、先生に教わった通りの作品だけでなく、
自分で工夫したものも一緒に出しました。
ひと針でも多く縫うことで、技術とセンスを磨いたのです。
並外れた積極性は幼少期に育まれた賜物で、
これこそが、前へ前へと突き進むコタカさんの原動力でした。
当時の写真には、卒業作品として自分で縫った
アフタヌーン・ドレスに身を包んだコタカさんが写っています。
日本の女性が洋服を着ることなど、ほとんどなかった時代です。
のちにコタカさんは、こう語っています。
「最新式の装いで、すましこんで写真に収まる、
度胸の良さに我ながら驚いています」。
道を切り拓いてゆく人には、それくらいの度胸が必要なのでしょうね。
世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。
この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。
■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久
■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会
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