広島の街を、81年前の原爆投下直後にバスが走っていたことをご存じですか? あまり知られていない、戦時下から被爆を経て復興を支えた「広島のバス」の歴史を探りました。
広島のバスの起源は、原爆投下の40年前、1905年に遡ります。広島市の横川と可部の間を日本で初めて10人以上が乗れる路線バス「かよこバス」が走りました。

1928年には、県内最大手のバス事業者・広島電鉄の起源とも言えるバス会社「広島乗合自動車」が誕生。広島市内ではバスの路線網が形成されていきました。
戦争に入り路線は縮小… 「決戦ダイヤ」に
しかし、戦争に入り、人も物資も不足すると状況は一変します。民間のバス会社は、国が主導権を取り統合が進められました。

社史の編纂に携わった広島電鉄の藤田睦さんは「とにかく物資を運ぶために貨物輸送が最優先、旅客輸送を極力削っていた。そういった中で合理化と経営規模の縮小を進めていた」と当時の状況を説明します。
戦況が厳しくなる中、1944年6月、広電バスは「決戦ダイヤ」に運行計画を変更。鉄道と重複する区間の大半で運行が休止されました。当時、バスはまだ車掌が乗務する時代。男性従業員の多くが出征するなか、人手不足を補うため車掌は女学生たちが務めました。
1945年8月6日 人類史上初めての原子爆弾が投下
そして…8月6日、原爆の投下によってバスも甚大な被害を受けます。

広島市内の各所でバスが全焼。広島電鉄では100両あったバスの68両が被災し、電車部門と合わせて185人が亡くなりました。

ただ、原爆投下のおよそ3時間後、爆心地から約2kmの場所へ、1台の救援バスがやってきたと証言する人がいました。13歳のときに被爆した尾崎稔さん(2021年取材、現在は逝去)です。
尾崎稔さんは「いまの工専(広島工業専門学校=現・広島大学工学部、千田町)の校庭を出て、3~4人で休んでいたら、呉の市営バスと消防車が昼前に応援に来た」と話します。ただ、避難するためバスに乗ったのは、尾崎さんだけでした。

尾崎稔さん
「私以外は家に帰ろうと思ったのか、このときに乗らなかった。私は家が爆心地至近の大手町で、家がもうダメだと思ってバスに乗った。結局、バスに乗らなかったものは皆死んだ」
2日後には 爆心地から約300mの場所にもバスが
さらに、その2日後の8月8日には、爆心地からおよそ300mの紙屋町をバスが走っていた証言が、1954年に発行された広島電鉄の社内報に残されていました。

広島電鉄 藤田睦さん
「被爆して2日後、8月8日、まだ電車が動けない状態の時に、千田町から紙屋町通って広島駅まで路線バスを運行したという従業員の証言があります」

当時、路面電車が8月9日に一部の区間で運行を再開しましたが、バスはそれよりも1日早く走り始めていました。
当時は大半が木炭車 戦後、木炭が不足し…
当時はほとんどのバスが木炭で走っていたそうですが、戦後は不足に陥りました。
元広島電鉄のバス運転手 川本高さん(1995年取材)
「当時残存した約30台のなかで、1台か2台くらいガソリン車が居た。あとは全てが木炭車。木炭が無くなったので、切った薪をバス車体後部の発生炉という機械に詰めた。そこで薪を燃やして煙を撒いて走っていた」
その後、バスは広島の復興を支えました。燃料や資材不足は徐々に落ち着いていき、いまも主流のディーゼルエンジンのバスにシフト。1957年には日本初の複数社が乗り入れるターミナル、初代・広島バスセンターが完成します。

特に山間部では、モータリゼーションで自家用車が普及するまで、バスは乗客だけでなく、薬や新聞など、さまざまな荷物も運ぶライフラインでした。

広島電鉄 藤田睦さん
「バスは線路がなくても道路があればどこでも走れますので、そういった意味では、非常にきめ細かくお客様のニーズに対応してきたということかと思います」
原爆による被害を乗り越えた広島のバス…121年目のきょうも、私たちの街を走り続けます。
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