忘れることも、語ることも出来なかったー。1945年8月6日、人類史上初めて、人の頭の上に原子爆弾が落とされました。名古屋市に住む森川美知子さん(94)は、目の奥に焼き付いて忘れられない光景があります。それは、原爆が投下された6日ではなく、翌7日のこと。81年間、誰にも語ることができなかった記憶です。

「名古屋から来たのよ、7時に起きて」。3月、広島市の平和公園に森川さんの姿がありました。広島で生まれた森川さんは81年前、広島第一高等女学校(第一県女)の2年生でした。森川さんは、爆心地から2.5キロ離れた飛行場で被爆しました。
この日、名古屋に移り住んで以来数十年ぶりに、平和公園内にある国立追悼平和祈念館に足を運びました。
「友だちと一緒なら」

「この三人組ですごく仲が良かったの」。平和公園で落ち合ったのは、植田のり子さん(94)と松坂緑さん(94)。3人は、第一県女に通った同級生。森川さんたちの目的は、国立追悼平和祈念館で開催されている、母校の企画展でした。
第一県女は当時、女学生にとって憧れの的でした。しかし、81年前、建物疎開などに出ていた生徒や教職員、301人が原爆に命を奪われました。

森川美知子さん
「私ね、怖くて来られなかったのよ、今まで。やっぱりね、何て言うのかな。寄りつけなかった」
森川さんは、友だちと一緒ならばと、勇気を振りしぼってやってきました。
迎えた1945年8月6日
2人とは、いまも広島で定期的に会うほど、大の仲良しです。しかしそんな2人にも、原爆の後に見た光景を、語れずにいます。
「お友達とはその話は、何にもしたことはない」
当時、広島市西区にある草津から電車に乗って、中町にあった第一県女に通っていました。

1945年7月に高須の飛行機工場へと学徒動員されましたが、ほとんど仕事がないまま、8月6日を迎えました。
「8月6日の日は、お天気も良いし仕事がないし、『朝10時ごろに泳ぎにいこう』って、水着持って行ってたのよ。歩けばすぐ川がありますでしょ。そしたらあの空襲警報が鳴って、『ちょっと休んでよ』ってなったら、原爆だった」
大粒の黒い雨を浴びて

逃げ込んだ己斐の山で、大粒の黒い雨を浴びました。
「ぱっと落ちると10円玉ぐらい。それがばあっと降ってきたの。ユニフォームがもう真っ暗になるぐらいずぶ濡れ、ざらざらで、母がもう気持ち悪がって、井戸の水でね、洗い流して」
逃げ帰った実家は、爆心地から離れていたため、家族はみんな、無事でした。
しかし、森川さんの目には、いまも誰にも話せない光景が、鮮明に、焼き付いています。
誰にも語れなかった“8月7日”の記憶

「8月7日の日です。同じように暑い日でした。学校からの通達で、己斐国民学校に被爆した1年生で、命からがら逃げてる人もいるから、探しに行ってこいっていう通達があったの」
たどり着いた己斐国民学校は、市の中心部から避難してきた負傷者でいっぱいでした。
満ち溢れるうめき声の中から、ふと、か細い声が聞こえました。
「私を『小泉さん』(旧姓)って呼ぶ声がするの。見たら、1年生でうちの同じ町から(第一県女)へ行った“ゆきちゃん”っていう1年。その子なのよ」
ただ、誰なのか、すぐには分かりませんでした。
「人間の姿をしていなかったの…」

森川美知子さん(94)
「ぱっと見たときに、人間の姿をしていなかったの。だけどね、声をね、『ゆきちゃん』って言ったらね、黙ってうなずいた。
その姿がね、本当に一日一回、思い出さないことがありません。人間の姿ではなかったの。どうして死んでいくか、分かんなかったんじゃないかしら。
女学校に通ったときに『通ったの』って言った顔がね、今でも浮かびます」
今、語り始めた理由

忘れることも、仲の良い友だちに話すこともできずにいた、81年前の、夏の記憶。
それでも今回、話をしてくれたのは、テレビに映った、戦火のなかの子どもたちが、きっかけでした。
「私ね、せっかくこんな平和になって、やっぱり平和のありがたさがあって。今、外国の子供たちを見るでしょ、テレビで。
本当に気の毒で、やっぱり『どんなことがあっても、戦争はしちゃいかん』と分かって分かってくださればと思いますよ」
今年も迎えた、原爆の日。名古屋の地で、静かな祈りの時を過ごします。
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