被爆者の記憶に残る光景を、広島の高校生が油絵に残す「原爆の絵」。1組の被爆者と高校生の8か月にわたる作業を追いました。

被爆者の記憶を継承する「原爆の絵」は、基町高校が2007年から毎年制作しています。完成した絵は被爆証言の資料としてあの日を語り継ぐ役割を担います。ことしは14枚を制作します。

取材をしたのは、爆心地から1.7kmの自宅で被爆した内藤愼吾さん(87)と、基町高校2年の三宅遥さん(17)のペア。81年前の8月6日、瓦礫のなかから、血まみれの弟と妹を救い出した母親の姿を描きます。

去年10月、2人は初めて出会い、内藤さんは三宅さんに当時の記憶を伝えます。

「弟と妹と仲良く遊んでいたら…」

1945年8月6日、当時6歳だった内藤さんは、自宅で弟と妹と遊んでいました。

内藤愼吾さん(87)
「縁側で遊んでいたんですよ、田舎から持って帰った野菜を並べて遊んでいたんですが、けんかをして。母に叱られて私は防空壕の上へ移動したが、弟と妹の2人は、まだ縁側で遊んでいた」

そして、原爆が投下された8時15分を迎えます。

内藤愼吾さん(87)
「建物がぺちゃんこに潰れて、2人は下敷きになった。あのときに私が仲良く弟と妹と3人で遊んでいたら、いま私は居ない」

内藤さんは、防空壕に吹き飛ばされて無事でした。爆風が止み防空壕を出ると、あたりは瓦礫だらけ…。そして目の前には、大やけどを負いながらも崩れた家の下敷きになった弟と妹を助けようとする母・寿恵子さんの姿がありました。

内藤愼吾さん(87)
「母は、左腕に強烈な熱線を浴びていて、完全に大やけどの状態。単純に血が出ているわけではなく、身体の生身のほうまで焼けたような。弟と妹は、火傷はしていなかったが、屋根がつぶれ、がれきでけがをしたというか、全身がもう血だらけだった」

母・寿恵子さんは、2人を助け出すことができましたが、幼かった弟と妹はその日のうちに息絶えました。寿恵子さんは8年後、原爆の後遺症とみられる症状で急逝しました。

「母親の表情を残したい」

内藤さんは、弟と妹を助け出したときの母・寿恵子さんの表情が忘れられないといいます。

内藤愼吾さん(87)
「助け出そうとしているときは、そばに近寄れないような、恐ろしい母親の顔を見たが、この2人を救出して『さあ逃げましょう』と降りてきたとき、表情が、なんだか仏さん、観音さんみたいな顔に変わった」

母親の表情を残したいと、70歳離れた三宅さんに託します。三宅さんは絵を描くにあたり「表情とけがの様子が、一番苦戦しそうなところ」と話します。

三宅さんがキャンバスに絵を描き始めてから3か月…。基町高校の周りに桜が咲いた4月上旬、苦戦しそうと話していた母の表情を決める日となりました。内藤さんは、三宅さんが選んで貰おうと描いた5つの表情のなかから、1つを選びます。決まった表情をもとに、三宅さんは授業やほかの作品制作の合間を縫ってひたすらに筆を執りました。

4月下旬、久しぶりの打ち合わせで、進捗した絵を見た内藤さんは、当時の様子をより少し鮮明に思い出しました。

内藤愼吾さん(87)
「考えたら、いまの2人が並んで抱きかかえられている構図より、妹は母の服の襟にすがりついて、それを母はまるで仏さんの表情のようにじっと見ていた」

忠実に再現したいと三宅さんは何度もやり直しました。徐々に、あの日の光景へと近づけていきます。

ついに絵が完成 2人が絵を見た人に感じてほしいことは

2人が出会って8か月…ついに絵が完成し、8日、披露会の日を迎えました。三宅さんは作品を前に「弟と妹を助け出した後、母がどういう感情・表情になるのか、考えるだけでもとても難しかった」と制作の過程を振り返りました。

内藤さんは、作品の制作過程で嬉しかった思い出を話しました。

内藤愼吾さん(87)
「ついに描いてくれたなと思って。お母さんが家でモデルになって、私が伝えたものと同じ構図で人形を抱いているところを、写真をスマホで見せてくれた。私はそれを見て『あ、これだ』と思った。それこそ、“母の愛”です。三宅さんが困っていたのを、お母さんがちゃんと協力してくださったんだなと」

三宅さんが描いた絵をはじめ、基町高校の生徒と被爆者が取り組んだ「原爆の絵」は、8月6日から広島国際会議場で展示されるほか、被爆者の証言で活用されます。

2人は、完成した絵への思いを話しました。

三宅遥さん(17)
「見てもらう人の中には、原爆についてあまり知らない人もいると思う。そういった人たちに、実際にこの光景があったというのを知って欲しい」

内藤愼吾さん(87)
「自分がその場所に居たらどうだろうか、ということを想像してほしい。平和の大切さをこの絵から読み取ってもらいたい」