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爆心地からわずか460メートルという近距離で被爆し、弟を亡くし孤児となった友田典弘さん(89)。戦後、朝鮮戦争の戦火にも巻き込まれるという数奇な人生を歩みました。爆心地から500メートル以内の近距離被爆者の「最後の1人」とされる友田さんが、被爆から80年を迎え、母校の小学生たちに、自身の壮絶な体験を語り継ぎました。
「『ピカ』と光っとったんよね」。広島市中区の袋町小学校に6日、大阪府に住む被爆者の友田典弘さん(89)の姿がありました。この日、自らの体験を後輩に伝えるため母校を訪れました。

80年前、爆心地からわずか460メートルの場所にあった袋町小学校(当時・袋町国民学校)。4年生で9歳だった友田さんは、地下室にいたため助かりました。しかし、朝礼で校庭にいた約80人は即死で、その中には、3年生の弟・幸生さんもいました。
友田典弘さん
「『ピカ』と光っとったんよね、オレンジ色に光った途端に真っ黒な風に飛ばされた。明るくなって階段を上がり、原爆ドーム(当時の産業奨励館)の方を見たら、雲が三段階にドーンと上がっていた。
弟が亡くなったことは、はじめは知らなかった。でも、遺体の足を見たら、靴に『トモダ』と書いてあったから弟と分かった。
『ごめんね、ごめんね』と声をかけた」

被爆から2か月後の袋町国民学校
母親も生死不明、父親はすでに他界していたため、友田さんは孤児となりました。自宅に下宿していた朝鮮人の男性と韓国に渡るも、現地で生き別れとなってしまいます。その後すぐ、朝鮮戦争の戦火に巻き込まれ、生活はどん底でした。日本語も忘れていたといいます。
そんなときに出会い、面倒見だけでなく、帰国を要請する手紙を広島市役所などに何十通も書き送り、帰国を実現させた女性が、梁鳳女(ヤンポンニョ)さんです。
友田さんは、梁さんの尽力もあり1960年、24歳のときに帰国を果たしました。梁さんの支えで帰国したものの、連絡をとる方法がないまま35年が経った1995年「もう一度お礼が言いたい」と梁さんを探すため再び海を渡った友田さんを、RCCは当時取材していました。

友田典弘さん(1995年の取材時)
「原爆受けて、韓国で戦争受けて、なんでこんな目に遭うのかと情けなくなってきてね」
下関から船で渡り、当時の悲しみと、梁さんの優しさを思い出した友田さん。
ソウルにある韓国MBCのテレビ番組に出演し、情報を求めたところ、放送直後、梁さんの長女金載淑(キムチェスク)さんから連絡が入りました。

金載淑さん
「お母さんが、あなたにどんなに会いたがっていたかわからないでしょう。あなたが日本に帰って元気でやっているか、いつも心配していました。死ぬまであなたの連絡を待っていましたよ」
梁さんは、すでに64才で亡くなっていました。友田さんは「お母さん、本当にすみません。早く来たかったのですが…」と涙を流しながら、花を手向けました。

二度も戦争に巻き込まれた友田さんは「なかなか話しにくい、色々体験しているからね」と、当時を振り返ることがいまも辛いと話します。
それでも、子どもたちが同じ経験を絶対にしてほしくないと、証言活動のために力をふりしぼっています。
真剣な表情で聞く子どもたちの姿に、友田さんは「いじめたりせずに頑張って、仲良くしてくださいよ」とエールを送りました。
袋町小 今岡葵馨さん(12)
「この証言や学びを、ただ私にとどめておくだけでは無く、原爆の被害を風化させないために、未来へと繋いでいきたいです」
袋町小 大下恵里奈さん(11)
「これから産まれてくる被爆者がいない世界の人たちのために、原爆はもう二度とやったらダメだという証言を残していきたいと思いました」

爆心地から500メートル以内の近距離で被爆した人で、いまも生存しているのは友田さん1人だといいます。被爆から80年経った最近の不安定な世界情勢を憂います。
友田典弘さん
「どこの国も一緒やけど、仲良くやっていかんとね。いまものすごく激しいもんね、色んな国が揉めてね。なかなか難しいよ、ほんまに…」
二度と、同じ思いをする人たちを生まないために、89歳となった友田さんは、証言活動を続けます。


















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