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これは戦後、お好み焼を広島のソウルフードに育て上げた“みっちゃん”こと井畝満夫さんの物語である。
1975年のカープ初優勝で全国に知られるようになった広島のローカルフード・お好み焼。その後、みっちゃんは、生涯のビジネスパートナーに出会います。現在オタフクソースの最高顧問を務める佐々木尉文(ささき・やすふみ)さんです。
オタフクソースがソースづくりに乗り出したのは1950年。戦前からお酢を作っていたオタフクは、ソースの分野で後発でした。
まわりにまったくツテがない中、唯一相手にしてくれたのが屋台のお好み焼店でした。
店主とのやりとりを100回以上繰り返したのち、お好み焼専用ソースが完成しました。長い間、お好みソースは広島でしか手に入らず、出張や旅行の際に買って来てと頼まれる広島土産として人気でした。
やがて技術の革新によってソースの品質が安定し、販路拡大が可能になりました。お好みソースを広めるには、お好み焼自体を広めなければなりません。
1987年、オタフクソースは東京にお好み焼研修センターを作ることにしました。お好み焼を知る人が少ない東京で、焼き手を育成しようというのです。その担当が佐々木さんでした。
佐々木)「はじめまして、オタフクの佐々木と申します。あのぉ、お好みをおいしく作るにはどうすればいいんですか?」
みっちゃん)「そりゃ心よ。自分が食べるもんを作るような気持ちで作らんと、お客さんは喜ばんで」
佐々木)「なるほど~」
当時みっちゃんは50代。佐々木さんは、広島のお好み焼を伝えるには技術の面でも人柄の面でも、みっちゃん以外いないと確信しました。
佐々木さんはみっちゃんに切り出しました。
佐々木)「折り入って頼みがあるんです。東京でお好み焼の先生をやってくれませんか? お好み焼を日本中に広めるという夢、わしらと一緒に叶えてくれませんか?」
みっちゃん)「喜んで引き受けさせてもらいます。ただし、ひとつ条件があります――」
佐々木)「条件……ですか……?」
(麻雀の音)
佐々木)「……あの、すいません……それロンです」
みっちゃん)「あちゃー。でも惜しかったんよ。ほれ見てみい。あと1枚でスーアンコーだったんじゃけえ。ヨシ、次いこうや、次!」
麻雀が大好きなみっちゃん。
仕事のアフターは常に麻雀。それは東京でも変わりません。
お好み焼は名人だけど、麻雀の腕はからっきし。
みっちゃん、明日も先生やるんだから、たいがいにしときなさいよ!
みっちゃん)「ツモ!リーチ一発ツモドラドラバンバン。あっはっはっはっはっは、楽しいの~!」
■作・演出 清水浩司
■朗読 二階堂 和美


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