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これは戦後、お好み焼を広島のソウルフードに育て上げた“みっちゃん”こと井畝満夫さんの物語である。
命からがら満州から引き揚げてきたものの、故郷の生活はラクではありませんでした。
みっちゃんが戻ってきた時、すでに広島は、復興への動きがはじまっていました。
混乱の中、以前の生活を取り戻そうとする人たち。そこに戦地から帰ってきた兵士や、開拓団として大陸に出ていた家族、田舎に疎開していた子どもたちが加わりました。
「お前、生きとったんか~」
1949年、「広島平和記念都市建設法」制定。
大型の工事が増え、さらに多くの人が流入しました。
街の中心部は石やガレキが散乱しているのに、人でごった返しています。
広島の街は原爆の被害に立ち向かうように、異様な熱気に包まれていました。
生きるため、誰もが懸命に働きました。
みっちゃんの父の井三男(いさお)さんは銅を拾い、八丁堀交差点で二重焼を売りました。みっちゃんも靴磨きをして、日雇いの道路工事に出ました。
しかし家族7人の暮らしは貧しく、食事も満足にできません。
みっちゃん)「くそー、みんなパンとか食いよるのに、なんで俺らだけ・・・」
姉)「みつお、そんなこと言わんの。生きて帰れただけ幸せと思わんと」
みっちゃん)「あいつらたまたま家が焼けんかっただけなのに、引き揚げモンじゃけえってバカにしやがって・・・」
井三男さんが一銭洋食の屋台を出したのは、そんな頃でした。
1枚5円たらず・・・。
生きるのに必死な庶民が、唯一安らぎを感じられるのは屋台でおいしいものを食べている瞬間でした。
もっといいものを、腹一杯食べたい。もっとお金を稼いで、いい暮らしがしたい。もっと、もっと、もっと、もっと・・・
あの頃のみっちゃんと広島の街は、生きることに飢えている様子が、よく似ていたのかもしれません。
生き残ったんじゃけえ、もっともっと、できるかぎり生きてやる・・・!
そのエネルギーの源になったのがお好み焼でした。
生き残ったんじゃけえ、生きてやる・・・
■作・演出 清水浩司
■朗読 二階堂 和美


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