「被爆80年を前に懐かしい学校が見られて。傷ついてかわいそう…そう。ここで焼かれたんですよね。たくさん」
八幡照子さん、87歳です。潤んだ瞳に写るのは、80年前に撮影された小学校です。窓が飛び散った校舎…。壁ごと抜け落ちた教室…。八幡さんは爆心地から2.9kmのところにあった広島市西区の己斐国民学校(現在の己斐小学校)に通っていました。
八幡照子さん
「覚えています。木造の校舎。覚えています。私はこの校門から入った横の辺が私たちのクラスだったので」
原爆が投下される前年、1944年の春に入学しました。
八幡照子さん
「風が吹くと花びらはひらひらひらひら舞ってね、地面を薄桃色に染めていたのを今も、目に浮かぶんですけど。本当に希望に満ちた入学式だったんですよ。♪みんなで勉強うれしいな 国民学校1年生みんなで体操1、2、3」
みんなで歌った音楽の時間…。新しくできた友だち…。しかし、希望に満ちあふれた学校生活は長くは続きませんでした。次第に戦争の陰が落とされるようになったのです。
八幡照子さん
「命1つとかけがえに百人千人切ってやるって毎朝、毎朝、6年生が行進するんですよ。サイパン島や沖縄に上陸して、今度は本土決戦かもしれないということで意気揚々の歌を歌っていたのね」
金目のものは武器にするために戦地へ送らなければならず、給食の器がアルミから竹に一変したことを覚えています。さらに、運動会で使っていた綱も学校から姿を消しました。
八幡照子さん
「学校の運動会の綱も"供出”と言って差し出さなければならなくて、そのお別れ会をしたりね、子ども心にも学校に綱がなくなることが悲しかったのを覚えています」
子ども心にも世の中が変わっていくことを実感していました。今でも戦時中の記憶と結びつくものがあります。
八幡照子さん
「白いおむすびが私の憧れだったの。もう本当に何が食べたいってこの白いおむすび。今も作ると幸せな気分がするんです」
“ほしがりません。勝つまでは” 厳しくなる生活にも耐えねばなりませんでした。
八幡照子さん
「日本が勝ったら学校に行って勉強できるとか。欲しいものも買ってもらえるとか。白いご飯も食べられると望みいっぱいで我慢してたの。すいとんという団子汁や、一握りのお米に野菜やお水を入れた雑炊をみんなで分け合って食べるような状態」
そして迎えた小学2年生の夏ー。爆心地から2・5km離れた広島市西区の自宅で父方の曾祖母、祖母、父と母、姉、弟2人の8人で過ごしていました。警戒警報が解除されたかどうか隣人に尋ねようと裏庭を降りたときでした。突然、閃光が走ったのです。
八幡照子さん
「ピカーっと空一面、巨大な蛍光灯になったようでした。あの光青白い」
毎日学校で練習していたように目と耳を塞ぎ、地面に伏せようと思ったとき、爆風に飛ばされ意識を失いました。幸いにも命は助かりましたが、裏庭から5~6m吹き飛ばされ、額にけがをしました。
近所で発生していた火災から逃れようと山に避難することになりました。
八幡照子さん
「頭もガンガン痛むのだけど、歯を食いしばってね、泣く弟の手を話さないで握って一生懸命母のあとを走ったのを覚えています」
山に着いて暗くなったかと思うと、八幡さんたちを大粒の雨が襲いました。
八幡照子さん
「大粒の雨がたたきつけるように土砂降りとなってね、みんなずぶ濡れになったの。白いブラウスがずず黒くなる汚れた雨で、粒が大きいの。普段と違う雨」
後にそれが、放射線物質を含んだ“黒い雨”だと知りました。被爆後、急性障害で高熱や吐き気、ひどい下痢に苦しみました。ずぶ濡れになり、父親が布団を運んでいる河原に逃げようと山を下りて河原に向かっていたときでした。
火の海と化した広島市中心部から逃げてくる人たちの行列を目の当たりにし、足がすくんだといいます。
八幡照子さん
「もう、それはね髪がね、爆風で逆立ってる人。じりじり焼かれた人。剥ぎ取られたりね、もう焼かれた皮膚。人によれば剥げた皮膚が手の先まで下がってストンと落ちないです。うめきながら泣きながら無言で我先にと逃げてくるんですよ」
己斐国民学校にも多くの人が殺到し臨時の『救護所』となりました。八幡さんも、額のけがを治療しようと、原爆投下から3日後、学校を訪れていました。かつて校門で桜吹雪を見た日のような、希望の光景はありませんでした。
八幡照子さん
「悲鳴ともうめき声ともつかないざわめきでいっぱい。うずくまってね、順番待ってる人のね、背中が大やけどで、そこに真夏の太陽が容赦なく照りつけて、本当にむせ返るような火傷の匂いにびっくりしてね」
友だちと過ごした教室や廊下は負傷者で埋め尽くされました。
八幡照子さん
「自分の教室を恐る恐る覗いてみたら、もう教室にも廊下にも、被爆者がいっぱい、大やけど負った人がね。みんな火ぶくれで目が開いてないの顔が腫れて。亡くなった人は真夏で腐るから急ごしらえのタンカーに乗せられて運ばれていくんですよ」
広い運動場には幾筋もの穴が掘られ、亡くなった人から火葬されたといいます。
約2000人が荼毘に付されたという校庭の光景は今も忘れることができません。
八幡照子さん
「吹き上がる煙は人を焼くにおいの異臭でいっぱい。わ~っと風に舞って運動場だけでなく校舎全体を包んでいた。怖いともかわいそうとも。あまりのショックでね、何の感情もなかった。ただ見てたの」
あれから80年ー。建て替えられた現在の鉄筋の校舎からは当時を伺い知ることはできません。
八幡照子さん
「小学校入学の時は堂々としたね。小学校。己斐国民学校だったのに…。まあ。ありがとうございます。こうやって改めて見て、原爆でこんなに痛めつけられたんですね。原爆の悲しみが伝わってきます」
学校中が負傷者で溢れかえったあの日ー。傷ついた校舎に目を向ける余裕などありませんでした。小学2年生だった八幡さんにとって、この校舎は“知らないことを学べる夢いっぱいの場所”だったと、涙ながらに語ります。
八幡照子さん
「まあ、よく見せてくださいました。**本当に抱きしめたいくらい愛おしい私の学校だったのに...**と思って。」
フィルムに残された学び舎は戦争と核の悲惨さを私たちに訴えかけています。
1945年10月に撮影された己斐国民学校
現在の己斐小学校
小学2年生で被爆した八幡照子さん(87)
小学2年生で被爆した八幡照子さん(87)が語る戦時中の思い出
小学2年生で被爆した八幡照子さん(87)が語る戦時中の思い出
小学2年生で被爆した八幡照子さん(87)
小学2年生で被爆した八幡照子さん(87)が語る戦時中の思い出
八幡照子さんのお正月の家族写真
1945年10月に撮影された己斐国民学校
1945年10月に撮影された己斐国民学校
1945年10月に撮影された己斐国民学校
1945年10月に撮影された己斐国民学校
「負傷者であふれる教室」 作/森永琴音 所蔵/広島平和記念資料館
「負傷者であふれる教室」 作/森永琴音 所蔵/広島平和記念資料館
「火葬場と化した校庭」 作/岡部美遥 所蔵/広島平和記念資料館
小学2年生で被爆した八幡照子さん(87)
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