1945年8月6日。原爆は、希望を胸に憧れの学校に入学したばかりの女学生の命も奪いました。広島第一高等女学校、第一県女。当時の女子児童にとって憧れの学校でした。友を、夢を、家族を、そして青春を奪われた女学生たちの追憶です。

「これがね、1年生に入るとき」。広島市に住む植田規子さん(94)が、見つめるのは、1つ年下の妹・睦子さんの写真です。

植田規子さん
「妹とね、きれいだから集めようって言ってね、アブラムシの卵を一杯集めてたら、それが孵るのね、アブラムシに。ものすごく怒られた」

懐かしそうに睦子さんとの思い出を語る植田規子さん

当時のことは昨日のことのように覚えています。

「2人だけで、なんだかんだ悪いこともしてたし、同じ2人とも県女だったからね。楽しかったですよ」

運命を分けた8月6日

植田さん(左)と睦子さん

81年前…第一県女の女学生だった植田さんを追って、睦子さんも憧れの女学校に入学しました。あの朝も同じ弁当を持って一緒に家を出た2人。しかし、8月6日、2人の人生は一変します。

「もうこれで会えなくなると思わないで、『じゃあね』とか言って」

戦況が悪化していた1945年、植田さんは動員学徒として、現在の広島市西区南観音にあった印刷工場に動員されていました。

8月6日午前8時15分…。朝礼に参加しているときでした。

「とにかく強烈にぴかーっと光ったんです。私たちは親指を耳の穴に突っ込んで目を押さえて、みんな地面に伏せていました」

建物の影にいたため奇跡的に大きなけがはありませんでした。

「広島市内が燃えていた」

その後、引率した教員とともに川を渡り、己斐の山へと避難しました。

「広島市内が燃えてましたね。お父ちゃん、お母ちゃん言ってね、泣き泣き叫んでいる人もいたし、ああ、街が燃えているわ、うちの家も燃えているかね、とみんな言い合いながらね、見てた」

両親と3つ下の妹とは翌日再会することができました。しかし、睦子さんはついに帰ることはありませんでした。

睦子さんはあの日、爆心地から約800メートルで、空襲により火災が広がるのを防ぐため、建物を取り壊す建物疎開の作業にあたっていました。

同じ作業現場にいた1年生は223人…。その全員が原爆に命を奪われました。

そしてその多くの女学生がいまも行方不明のままです。

「むっちゃん、制服と一緒に…」

「ねえ、大事にしてくださって、ありがとうございます」

この日、植田さんは広島市中区の原爆資料館に足を運んでいました。

「むっちゃん(睦子さん)、こんなに小さいのよね。こんなに小さいのよね」

震える声で見つめていたのは、あの日、睦子さんが身につけていた制服です。原爆投下のおよそ2週間後、父と妹ががれきの下から見つけ出しました。

父の着物の生地を使って縫われた制服は、焼けることなく、名札や記章もはっきりみることができます。

「父が『あった、あった、睦子がおった、おった。睦子がおるぞ』って言って持って帰りましたもんね。むっちゃん、制服と一緒に帰ってきたんだよね」

もう一つの生きた証

原爆資料館には、もう一つ睦子さんの生きた証があります。あの日まで、睦子さんがつけていた日記です。

睦子さんの日記

睦子さんの日記より
「8月5日日曜日晴れ。きょうは大変よい日でした。これからも一日一善ということを守ろうと思う」

植田さん
「一日一善も命があってのこと…」

若い世代に託す思い

植田さんは自身の被爆体験を横浜市の中学生に話すため、平和公園に向かっていました。

大切な妹を失った自身のつらい経験を若い世代にさせたくない…。その思いから今も、できる範囲で、自身の体験を語り続けています。

「私は広島県立第一高等女学校の2年生です。私にすぐ下の妹がいるんですが、1年生できょうだい2人出毎日学校に通っておりました。その日すぐ1学年下の妹はね、未だに行方不明なの」

かつての自分たちと同世代の子どもたちに訴えかけます。

「平和な生活をみなさんはよく知ってる。ですから、国がおかしくなったら、これ変ですよっていう声を上げられる、力強い人たちに、大人に成長していただきたいと思います」

子どもたちに妹を重ね

生徒1人1人と言葉を交わす植田さんの目が潤みました。

「元気で大きくなってね、ほんとに。私の妹も生きてたら」

生徒たちの姿に、あの日、同じお弁当を持って別れた妹の面影を重ねていました。

「大きくなってよ、ね」。優しく生徒たちに語りかけた植田さん。81年前の悲劇を2度と起こさないために…語り続けていきます。