広島は6日、原爆投下から81年を迎えます。13歳で被爆した松坂緑さん(94)は、原爆によって生後間もない弟と母親を一度に奪われました。

被爆者の高齢化が進み証言者が減るなか、2年前に初めて母校で体験を語り始めた松坂さん。長年閉ざしてきた胸の内と、今、未来を生きる子どもたちへ伝えたい「平和への誓い」とは。

生まれたばかりの弟

松坂緑さん

松坂さんは81年前、県立広島第一高等女学校、通称「第一県女」の2年生でした。松坂さんは、広島市中心部の鉄砲町で、5人家族で暮らしていました。兄弟は、ひとつ上の姉と、そして…。

「ここにありました。これ弟…」

自宅に大切に保管していたアルバム。その中の1枚に映っていたのは、生まれたばかりの弟・宏ちゃん。十数年ぶりの弟の誕生に、家族は大喜びだったといいます。

「学校から帰ったらお守りをして」

松坂緑さん
「もう、ちょちょちょっと歩いてましたよ。私は学校から帰って子守りして、お守りしてました」

そんな中、戦況は日に日に悪化。松坂さんたちも学徒動員として、印刷工場に動員されました。

この動員が、数週間後、松坂さんと家族の運命を分かつことになります。

運命を分けた8月6日…

1945年8月6日、午前8時15分…。松坂さんは動員先の印刷工場そばにあった小学校の校庭で朝礼をしていました。

「ピカッと光ったんで。その後から、すごい爆風がやってきましたね」

広島市内は、火の海でした。鉄砲町の自宅には戻れないと判断した松坂さんは、親戚の家に避難。逃げてきた姉とともに家族を待ちました。

しかし、原爆投下の翌々日。避難先に現れたのは、父親ただ1人でした。

「もうダメなら逃げてください」

松坂緑さん

「母と弟は、母屋の大きな二階が落ちて下になっていた。どうしても1人で父は助けられなくて。母が『もうダメなら逃げてください』。

私と姉がいるからね。『逃げてください』って。

弟は赤ちゃんだから、元気に走り回りだした途端でしたからね」

祖母は母の死を知り…

その後、自宅跡で母親と宏ちゃんの遺体が見つかりました。焼いてもらった遺骨を持って、祖父母のもとを訪ねましたが…。

「祖父は母の遺骨を見て、次の日ぐらいに、亡くなりました。よほどショックだったんだと思いますね、一人娘でしたからね」

家族の命を奪った、原爆。日本が戦争に負けたのはそのわずか9日後のことでした。

「なんでもっと早く負けなかったのか。母、弟らが亡くなる前に、戦争やめさせてくれたらよかったのに…」

2年前、重い口を開き…

松坂さんは、これまで被爆体験を家族にも語ってきませんでした。

被爆証言者が少なくなる中、自らも語り残しておきたいと、2年前、母校を継いだ皆実高校で、体験を語りはじめました。

松坂緑さん
「原爆のことは忘れられないですね。息子や孫、みんなが、ああいうことがないように願っています」

子どもたちに、二度と戦争を体験させたくない。81年目の祈りの夏を迎えています。