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「福をカキ集める」「喜来(カキ=喜びが来る)」などの語呂合わせから縁起物として重宝される干し柿。地域によっては正月の鏡餅に添えられたり、おせち料理の一品として食されたりと、年始を彩る食材として親しまれています。
そんな中、去年一部のSNSで干し柿に関する投稿が注目を集めました。それは「ゆめタウンでは一年中、干し柿を売っている」というものでした。噂は本当なのか、担当者に話を聞きました。

提供:イズミ
「ゆめタウン」は、広島市のイズミが西日本を中心に展開する総合スーパーです。
イズミは「ゆめタウン」の他にも食品スーパーの「ゆめマート」や専門店も併せた「ゆめモール」「ゆめテラス」などを運営。2024年には西友から九州エリアのスーパー「サニー」を買収し、イズミグループは全国に260を超える店舗を展開する小売り大手へと成長しました。
厳格なコスト管理が求められる小売り業界にあって、干し柿という季節商品を1年中売るということが本当にあり得るのでしょうか。
イズミ広報課の佐古大典課長に話を聞きました。
記者
「SNSでゆめタウンには1年中干し柿を売っているという投稿を見たのですが、これは本当でしょうか」
佐古課長
「はい、本当です。ゆめタウンなどほぼ全てのスーパーマーケットで1年中販売しています」
二つ返事に驚きながらも、干し柿といういわばニッチな商品がどの店舗でどの期間取り扱われているか、どうして即答できるのだろうか聞くと、佐古課長はその理由についても答えてくれました。
佐古課長「干し柿は『創業商品』ですので、一年中変わらず取り扱うよう、これまで続けてきました」
RCCには過去、創業者の山西義政氏(2020年死去)に行ったインタビュー取材の資料が残されています。取材の中では「創業商品」である干し柿に対する創業者の思いが語られていました。

創業者・山西義政氏(2014年取材)
広島駅前には、終戦直後米や衣服を違法に売り買いした「闇市(やみいち)」がありました。ここを出発点にスーパー「イズミ」を立ち上げたのが山西義政さんです。原爆投下によって荒廃した街で、どん底から商売をはじめ広島の復興と共に店を大きくしていきました。
2014年11月の取材当時、山西さんは92歳。イズミ会長として売り場を回り、週に6日は出勤を続けていました。
山西さんは1922年、現在の大竹市で生まれました。広島市の宇品地区で子ども時代を過ごし、小学4年になった頃には、早くも「商売をしていた」といいます。
イズミ会長・山西義政さん(当時92)
「海に行ってね、ハマグリとかそういうものを採って売って。父が早く亡くなったからね、母親と妹の生活を支えるのにはね、やっぱり収入が要るわけですね」
山西さんが19歳の時、太平洋戦争が勃発。開戦から2年後に山西さんは旧日本海軍に入りました。

創業者・山西義政氏(2014年取材)
山西さんは当時世界最大級だった潜水艦「伊400」の乗組員でした。
山西さん
「敵の潜水艦がおってね、魚雷で発射するんが目に見えるわけね。もしそれが当たったらね、船は沈んで誰も助かりゃせんじゃろ。でも、なんか、あー、来た来たゆうようなね、あんな感じじゃったね。戦争そのものが大きなリスクを負ったゲームだと、国が大きなゲームをやっとる、その一端を担っとるような感じでね」
終戦を迎え、母親を原爆で亡くしたことを知りました。
山西さん
「戦争から帰った時は原爆の後ですから、70年は草木も生えん、言われたわけですからね。しかし、やっぱり人間の力、すごいじゃないですかね。広島の街は復活したわけですからね」

創業者・山西義政氏(提供:イズミ)
戦後80年を迎えた去年、広島駅のホームには市内電車が乗り入れ、駅ビルも新しく生まれ変わりました。その広島駅南口には、かつて闇市が所狭しと軒を連ねていました。イズミが生まれたのは、この闇市でした。
山西さん
「広島は『仁義なき戦い』とかね、全国でも暴力団が力をつけた有名な都市なんですよ。勢力争いをやってね、切った張ったの街だった。だから、昼の日中にね、日本刀と短刀でチャンバラやってもね、警察に通報しても来ないんですよ」
山西さんはそんな闇市の一角に戸板を敷き、小さな露店を構えました。商品に選んだのは、農家出身の戦友から仕入れた干し柿でした。
山西さん「コメとかムギとかね、そういうものを売ったら罰せられるのね、食糧法違反で。衣料もそう。ところが、干し柿は統制外。だから良かった」
甘いものに飢えていた人々は殺到し「飛ぶように売れた」といいます。そんなある日、小さな子どもを連れた若い母親が店を訪ねて来たそうです。母親は1着の着物を抱えていました。
山西さん
「幼い子どものために…『子どもがお腹を空かしとるから』って自分が持ってきた花嫁の衣装を、干し柿と換えて欲しいと言われたんです。今思い出しても、涙が出る」

提供:イズミ
被爆から5年が経った1950年。焼け野原に少しづつ建物が建ち始めたころ、卸問屋「山西商店」を設立しました。その11年後には、当時珍しかったスーパーマーケット「いづみ」をオープンさせました。
当時、広島市の人口は被爆した年のおよそ3倍の46万人。復興から発展へと向かう都市は活気にあふれ、1号店には、山西さんの想像を上回る人々が訪れました。
1970年代後半から事業拡大を進め、現在のイズミグループは年商5000億円を超える企業にまで発展しました。それでも、闇市で見た親子の姿、焼け野原から立ち上がろうとする人々の姿を忘れないよう、大切にし続けている商品が、干し柿です。
山西さん
「(干し柿は)商売の原点。どのようにしたらお客さんが本当に喜んで下さるんかなと。それが原点ですよね。干し柿を地下足袋や花嫁衣裳と換えてあげたら、お客さんはものすごく喜んだじゃないかと」

提供:イズミ
ことし、イズミは創業65周年を迎えます。佐古広報課長は「改めて物を売るという原点に立ち返る必要がある」と力を込めます。「食を通じて地域に貢献したい。そのためにも、創業商品の干し柿は売り続けていきたいと考えています」。
戦後、焼け野原に集まった闇市から始まった小売りの夢は、2026年も大きく育っていきます。

提供:イズミ

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