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「人間の目で見てはいけない」12歳の少女が見た“きのこ雲の下” 92歳で初めて母校で語る そして旧友との“再会”「やっと会えた」

「このままあの世に行っては絶対にいけない」。12歳のとき広島で被爆した92歳の女性が先月19日、初めて自らの体験を母校で語りました。90歳で大病を患った女性は、70歳以上も年下の後輩に伝えたいことがありました。そして、どうしても訪れたい場所がありました。

核兵器の使用、保有、威嚇など全面的に禁止する核兵器禁止条約の第3回締約国会議がアメリカ・ニューヨークの国連本部で3日から開催されます。1945年8月6日、きのこ雲の下で何が起きたのか。被爆者の声を伝えます。

「みなさんとは75、6歳の差がありますけど、私のとって大切な後輩です」。高校1、2年生約240人に優しく語りかけたのは、大橋和子さん(92)です。広島翔洋高校(広島県坂町)の前身、広島女子商業学校の卒業生です。

大橋さんは90歳のときに腎臓ガンを患いました。手術を重ねる度に思ったことがあります。

12歳で被爆した大橋和子さん
「私の口でいつまで話せるか。どうしても話しておきたいと思って、曲がった背中でここにやってきました」

そして1945年8月6日に何が起こったのか。静かに語り始めました。

友人と一緒に空を見上げていたとき「ピカっと光って…」

女学生のときの大橋さん

当時、大橋さんは、1年生の12歳でした。8月6日、爆心地から約1.5キロの場所で、建物疎開の作業をしていました。

午前8時15分、上空の飛行機に気付き、仲の良かった友人と空を見上げている時でした。

「ピカっと光って、ドンと大きな音ととともに、辺りが真っ暗になりました」

大橋さんは、とっさにその場に伏せたといいます。しかし、隣にいた友人は…。

12歳で被爆した大橋和子さん
「両手にがれきを持って、ちょっと足を開いて、仁王立ちのように空を見上げていました。おそらく即死だったと思います。私はその子の後ろから、影から飛行機を見ていた。その子のおかげで助かったんだと、今でも思っています」

その後、市内を逃げ惑いました。「おかあさん、おかあさん」泣きわめく声。子どもを守ろうとしたのか、我が子に覆い被さるように倒れている母親の姿。そして、傷ついた人たち…。

大橋和子さん(92)
「そのときの状況を表す、1番分かりやすい言葉がどういう言葉か、何度も何度も考えました。でも未だにその言葉を考えることはできません。とにかく、人間の目で見てはいけない状態でした」

ある母親が背負っていたのは…

逃げ惑っているとき、何メートルか先に何かを背負って逃げる人の姿が目に入りました。「それが何なのか」。何度も目をこらして見たと言います。

大橋和子さん
「何度も何度も見ました。でも首から上が見えない…。赤ちゃんの姿だったんです。それが赤ちゃんだと分かったとき、私は気を失いました」

大橋さんは、この母親が我が子を抱いたとき、どんな気持ちになるのか。想像したその姿が頭から離れず、苦しみました。

大橋和子さん
「頭に入り込んできてどうしても消えない。夢にまで見るんです。とても苦しかった」

気がついた大橋さんに、喉の渇きが襲います。「とにかく泥水でもいい」と水たまりから両手ですくって飲もうとしたときでした。

大橋和子さん
「逃げる途中に見た人たちと同じ姿だったんです。目が、鼻が、口が、どこにあるか分からない、無惨な姿でした。それが自分の顔だと分かったとき、その場でまた気を失いました」

その後、どう逃げたのかは覚えていないといいます。親戚に助けられ、家族と再会を果たすことができました。

後輩に伝えたいこと そして、どうしても行きたかった場所

初めて母校での証言。真剣に大橋さんの話を聞く後輩たちに、こう呼びかけました。

大橋和子さん
「あれから80年という年月が経ちました。でも昨日のように、いつまでも消えることはありません。

今後、何があっても絶対に戦争だけは阻止してください。戦争は、人間が人間でなくなるんです。知性も、理性も、判断力も、理解力も何にも無い、人間の形をしたモノになってしまう。みなさんの大切な家族をこんな目に遭わせては絶対にいけません。

どうか皆さん、あなたたちは若いんですから、今後いろんなことがありますが、戦争だけは絶対にしてはいけません、お願いします」

後輩たちへの証言を終えたあと大橋さんは、校内のある慰霊塔に向かいました。そのそばには、あの日、命を奪われた生徒の名前が刻まれています。

「やっと来たよ。ありがとう。あたなのおかげで、いま生きています」。さする手の先に刻まれた名前は、あの日、隣にいた友人です。

12歳で被爆した大橋和子さん
「もう80年、ずっと会いたかったんです。それがやっといま会えた。あの子のおかげで、いま生きているんだっていう気持ちがずっとあった。何度も来たかったが、病気したりとかいろんな事情で来られなかったんです。でも、今日やっとこれました。安心しました」

被爆から80年。大橋さんは、これからもあの日の記憶を伝えていくつもりです。

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