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「どうしても会いたかった」ノーベル平和賞の日本被団協 箕牧代表委員がオスロから帰国後向かったのは97歳の被爆者 被爆80年へ核兵器廃絶の決意を新たに

「どうしても会いたい女性がいる」

去年のノーベル平和賞を受賞した日本被団協の代表委員、箕牧智之さんは、年の瀬が迫るある日、広島市内の高齢者施設を訪ねました。

箕牧智之さん
「会いたかったです、会いたかったです。箕牧です」

「どうぞようこそ、お越しくださいました」

迎えたのは、97歳の阿部静子さん。箕牧さんがどうしても会いたかったという女性です。

阿部さんは18歳の時に爆心地から1、5キロで被爆。原爆の熱線で顔や右半身に大やけどを負いました。命は助かっても、手や顔はケロイドで引きつり、差別にも苦しみました。

箕牧智之さん
「私は3歳で原爆じゃけえ。阿部さんはいちばんの青春時代でしょう。涙が出るよ、阿部さんのことを聞いたら。原爆さえなけりゃあ人生も変わっとるはずなんよ」

阿部静子さん
「一生かかってもなくなりませんでした。原爆の傷は。世の中の皆さんに私の苦しみを味わってほしくないと思って」

被団協結成当時を語れる数少ない存在…「会って話を聞きたい」

被爆から10年後、阿部さんは声を上げ始めた他の被爆者たちとともに、被爆者の援護や原水爆禁止を求めて国会に請願をするなど活動を開始。

そうして、被団協の結成にも関わりました。

いまでは、その当時を語ることができる貴重な1人です。

「そんな阿部さんに会って、話を聞きたい…」。被団協の結成当時を知らない箕牧さんは、ノーベル平和賞を受賞した直後から考えていました。

「大先輩の活動がやっと…」阿部さんへの思いを手紙にしたため

箕牧さんは、阿部さんに手紙を用意していました。阿部さんが、ハキハキとした声で読み上げました。

箕牧さんの手紙
「お元気でお過ごしですか。私は前から一度お会いして、79年前の原爆当時から今日までの話をお聞きしたかったものです。私たちの大先輩の活動が、やっと世界から認められました。広島県被団協には当初から関わられたことでしょう。これからも元気で私たちをご指導ください」

被爆当時3歳だった箕牧さん。「受賞式に自分が出席するプレッシャーは感じていなかった」と話すものの、「受賞したのは大先輩たちの活動のおかげ」だと何度も口にしていました。

箕牧さんと坪井さん 2015年

箕牧さんが被団協の活動に加わったきっかけとなった、2021年に96歳でなくなった前代表委員の坪井直さん。受賞式では、心の中で何度もその姿を思い浮かべました。

「お互い体に気を付けて頑張りましょう」83歳と97歳の決意

箕牧智之さん
「こうやって阿部さんと2人で話せることが嬉しい」

被団協を作った「大先輩」と話せる喜びを、箕牧さんはかみ締めていました。

記者
「阿部さんはノーベル平和賞の授賞式の様子を…」
阿部静子さん
「テレビでね、あなたがここ(頬)を引っ張られるのも見ました。嘘じゃないか思われたんでしょう。ここで拝見しましたよ。泣きましたよ私もいっしょに。」

2024年10月

阿部静子さん
「静かに考えたら、これは喜んでばかりおられんな。今戦争がないわけじゃなしに、核をひけらかして脅しをかけようる。これは被団協へ『今まで一生懸命やったけど、なおいっそう頑張ってください』というシグナルじゃ思いました。お互い頑張りましょうね」

箕牧智之さん
「また来年、暖かくなった頃にまた来る。どうぞお元気で良いお年をお迎えください」

箕牧さんは、「暖かくなったらまた来ます」と繰り返して阿部さんの元を離れました。

今後、講演会など「伝える場」が多く控えているという箕牧さん。阿部さんとの会話を重ねて聞いた話を、自身の活動に生かしていきたいと考えています。

「なお一層、頑張ってくださいというシグナルじゃ思いました。頑張りましょうね」

被爆80年を迎えたいま、高齢の被爆者らは、決意を新たにしています。

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