今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。
コタカさんが裁縫と手芸を教える塾、大妻技藝伝習所(おおつま ぎげいでんしゅうじょ)の人気は、うなぎのぼり。
その評判を、さらに上げる出来事がありました。
大正5年の5月、日本橋の三越で、東京にある女学校の作品展覧会が開催されたときのこと。
コタカさんの塾にも声がかかり、生徒がつくった編み物や袋物、刺繍などの手芸作品を十数点出品しました。
当時は、三越に作品が展示されるだけでも誇らしいことです。
ましてや、学校ではなく個人が運営する塾が参加できたのですから、コタカさんにとっては嬉しい発表の場になりました。
そのうえ、展覧会の取材に来た新聞社の女性記者が、「大妻の作品は大変垢抜け(あかぬけ)している」、つまり「洗練されている」と褒めたことがきっかけで、注目の的になったのです。
その評判は文部省にも伝わり、実際に作品を見た役人から、「こんな立派な成果が上がるのでしたら、塾ではなく学校にしたらどうですか」と勧められました。思いがけない申し出に、驚いたコタカさん。学校経営をするために始めた塾ではなかったので、「私にできるだろうか」と迷ったのですが・・・背中を押してくれたのは、夫の良馬さんでした。
「やれるところまで、やってみたらいい」。
コタカさんの教え方の優れた資質を、見抜いたうえでの言葉だったのでしょう。
良馬さんの励ましを受けたコタカさんは、一大決心をして東京府、現在の東京都に学校設立の願いを出しました。
その年の秋、正式な認可を得て、大妻技藝伝習所は「私立 大妻技芸学校」という名前で
学校の仲間入りをしたのです。
三越に出品した作品の確かな技術と、時代の先をゆくセンスが認められ、実力でつかんだチャンスでした。
そして、大正6年。
大妻技芸学校の校長を務めるコタカさんを、夫の良馬さんは、側面から支えていきました。
世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。
この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。
■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久
■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会
新着記事
ランキング
※毎時更新、直近24時間のアクセス数を集計しています。
コメント (0)
IRAWアプリからコメントを書くことができます!!