今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。
大妻良馬さんと結婚して、教師を辞めたコタカさんは、
東京の紀尾井町で新婚生活を始めました。
一緒に暮らしてみると、夫は思いやりのある優しい人で、
生涯を共にしたいと心から思えたのです。
そんなある日、良馬さんの兄が職を失い、
二人の子どもを連れて同居することになりました。
家族が一気に三人増えて、やりくりは大変でしたが、
面倒見のいいコタカさんにとっては、張り合いのある日々でした。
やがて、兄に新しい仕事が見つかり、二人だけの静かな生活が戻ってくると、
なんとなく物足りなさを感じ始めたコタカさん。
得意の針仕事で袋物を縫い、手芸をしていたところ、
ご近所さんの目にとまり、「作り方を教えてくれませんか」と頼まれました。
一人、二人と教えているうちに、いつの間にか生徒が増え、
せまい家に15人もの娘さんたちが集う、にぎやかな教室になったのです。
もともと教師だったのですから、教えるのはお手のもの。
娘さんたちが上達していく姿を見るのが嬉しくて、
ごく自然な流れで、裁縫と手芸の塾が開かれるようになりました。
明治41年のことです。
これが、のちの大妻学院の基礎になるとは、
その時のコタカさんには想像もできなかったでしょう。
翌年には、宮内省に務める夫の仕事の都合で、
山階宮家の邸内に引越しをすることに。
そこでも裁縫と手芸を教え続けました。
さらに、「東京女子技藝教授所」という看板を掲げることを許され、
明治43年、本格的な塾になったのです。
求められるまま前へ進むコタカさんを、
一番近くで見守り、応援したのは夫の良馬さんです。
生徒が増えてくると、偶然にも同じ山階宮家の広い場所が空いたので、
教室として借り受けてくれました。
そして、大正3年。
「大妻技藝伝習所」と名前を変えた塾は、
教え子を含めわずか3人の先生のもと、
200人以上の生徒が通う学舎になったのです。
世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。
この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。
■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久
■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会
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