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東洋額装スペシャル「大妻コタカの生涯」 第7話 裁縫と手芸塾の始まり

今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。

第7話 裁縫と手芸塾の始まり

大妻良馬さんと結婚して、教師を辞めたコタカさんは、
東京の紀尾井町で新婚生活を始めました。
一緒に暮らしてみると、夫は思いやりのある優しい人で、
生涯を共にしたいと心から思えたのです。

そんなある日、良馬さんの兄が職を失い、
二人の子どもを連れて同居することになりました。
家族が一気に三人増えて、やりくりは大変でしたが、
面倒見のいいコタカさんにとっては、張り合いのある日々でした。

やがて、兄に新しい仕事が見つかり、二人だけの静かな生活が戻ってくると、
なんとなく物足りなさを感じ始めたコタカさん。
得意の針仕事で袋物を縫い、手芸をしていたところ、
ご近所さんの目にとまり、「作り方を教えてくれませんか」と頼まれました。

一人、二人と教えているうちに、いつの間にか生徒が増え、
せまい家に15人もの娘さんたちが集う、にぎやかな教室になったのです。
もともと教師だったのですから、教えるのはお手のもの。
娘さんたちが上達していく姿を見るのが嬉しくて、
ごく自然な流れで、裁縫と手芸の塾が開かれるようになりました。
明治41年のことです。

これが、のちの大妻学院の基礎になるとは、
その時のコタカさんには想像もできなかったでしょう。

翌年には、宮内省に務める夫の仕事の都合で、
山階宮家の邸内に引越しをすることに。
そこでも裁縫と手芸を教え続けました。
さらに、「東京女子技藝教授所」という看板を掲げることを許され、
明治43年、本格的な塾になったのです。

求められるまま前へ進むコタカさんを、
一番近くで見守り、応援したのは夫の良馬さんです。
生徒が増えてくると、偶然にも同じ山階宮家の広い場所が空いたので、
教室として借り受けてくれました。

そして、大正3年。
「大妻技藝伝習所」と名前を変えた塾は、
教え子を含めわずか3人の先生のもと、
200人以上の生徒が通う学舎になったのです。

世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。

▶番組ホームページはこちらをクリック「大妻コタカの生涯」を聞くこともできます。

この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。

■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久

■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会

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