今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。
世羅の本郷高等小学校に進学して、冬の間は下宿生活をしていたコタカさん。
「一番で卒業する」というお母さんとの約束を励みに、
毎晩遅くまで勉強をしていました。
あと一年で卒業できるという、明治31年の冬。
下宿にいたコタカさんのもとへ、「すぐに帰ってほしい」と
迎えの人がやってきました。
試験を控えていたのですが、いわれるままに家路を急ぎました。
当時のことを、コタカさんはこう振り返っています。
「家に着いたとき、母はすでに息を引き取ったあとでした。
間に合わなかったのです。
私はこのとき14歳。
母に喜んでもらいたい、褒めてもらいたいという、
たった一つの心の支えを失ってしまいました」
泣いて、泣いて、泣きはらしたコタカさん。
けれど、いつまでも泣いているわけにはいきません。
「一番になる」という、お母さんとの約束を果たさなければ。
心の中に、再び希望の火が燃え始めたのです。
翌年の春。コタカさんは約束通り、首席で卒業しました。
男子生徒が大勢いる中で、一番になったのです。
男尊女卑の風潮が根強かった時代ですから、
くじけそうになることもあったでしょう。
そんな時、女子生徒たちに向かって
「男に負けず、がんばりなさい」と励ましてくれる先生がいたことも、
心の支えになりました。
卒業後は、甲山町にあった
多田道子裁縫所(ただみちこ さいほうしょ)の門をたたき、
学びの道を歩み続けたコタカさん。
多田道子さんは10歳くらい年上で、
英語などの新しい学問を身につけた女性でした。
コタカさんは、憧れと共に大きな影響を受けたのです。
その後、世羅西高等小学校の雇(やとい)教師になり、
検定試験に合格して、広島県の小学校裁縫専科正教員の免許を取得。
そして、明治35年の春、
母校の川尻尋常小学校の教壇に立つことになりました。
こうして、コタカさんの長い長い教師生活は、
生まれ育った世羅の小学校から始まったのです。
世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。
この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。
■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久
■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会
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