SUPER EIGHTの村上信五さんが、RCCの被爆81年プロジェクト「PEACE MOVE」でピース・アンバサダーとして、8月6日の朝、広島で取材しました。その様子をまとめました。

8時15分 村上さんは、広島市中区にある平和公園内の緑地帯で黙祷しました。すぐそばでは、平和記念式典が開催されていました。

こどもが誓う言葉に村上信五さんは…

こども代表が「平和への誓い」を読み上げます。

・・・私たちには、被爆体験を直接聴くことができる最後の世代として、
 当時の記憶を事実として受け止める使命があります。
目をそらさず、知ろうとすること。
 悲しい現実でも向き合うこと。

そこには、「生きたかった人々」、「生き続けた人々」の思いがあります。
 私たちには、広島のこどもとして、行動する責任があります。
相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。
平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。
 一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります。
 平和とは、誰かからあたえられるものでなく、
世界中の人々で創り上げるものです。…

田村友里アナウンサー
Q.子ども代表の言葉でしたが、いかがでしたか?
村上信五さん
「意見が違ってもね、それを受け入れて、話し合っていかなきゃいけないですよね、っていうところは、…どれだけの大人に響いたんでしょうね。まだこういう世の中の状況ですから、それをまた子供に言わせてるっていう、大人の責任もありますよねって思いながら、今年は聞かさせていただきましたかね」

村上信五さん 初めての平和資料館で驚いたものは?

平和記念式典の後、公園の西側にある本川小学校の平和資料館を訪れました。村上さん、この資料館には初めての訪問です。

田村友里アナウンサー
「こちら本川小学校ですね。(爆心地から)一番近い小学校になるんですけど。建物が奇跡的に残って、その一部を資料館として活用してらっしゃいます」
村上信五さん
「なるほど、なるほど。いや、奇跡的にもほどがあるね」
田村友里アナウンサー
「そうなんですよ。広島で初めての鉄筋コンクリート3階建ての校舎だったみたいで」
村上信五さん
「へぇー!」

校舎が建てられたのは、1928年。被爆後の写真からは、原爆ドームの西側に本川小学校の校舎だけが残っていることがよくわかります。

田村友里アナウンサー
「周り何もない中、本川小学校の校舎だけ…」
村上信五さん
「すごい残り方やね」
田村友里アナウンサー
「中はもう熱線で全焼なんですけど、(外)側だけ残ってると」

資料館には、その後校庭などで見つかった、ぐにゃぐにゃに溶けたガラスなども展示されています。

村上信五さん
「いや、校庭からこれだけのものがでてくるっていうのが、ね、距離感を表してますね」
田村友里アナウンサー
「児童は400名、教職員も10名ほどが、一瞬にして亡くなったと」

「触れられる展示品」のある地下へ 手から伝わる熱線の影響

資料館は、1階と地下があります。

田村友里アナウンサー
「地下もその当時のまま」
村上信五さん
「あ、あの壁とかがそうなのか」

田村友里アナウンサー
「私が初めて来た時に、意外とこう、煤(すす)とかがすごくあるわけじゃないんだなって思ったんですけど、詳しい方に聞いたら、被爆した後に、しばらくずっと水につかっていた状態だったらしいんですよ」

地下には、戦後、元安川から見つかった、原爆ドームのバルコニー柱が、触れてもいい状態で展示されています。

村上信五さん
「御影石かな?これ。つるつるのやつだったのに、ここまでザラザラになる」

札幌から来ていたお父さんと娘さんも触っていました。

女の子
「あ、ザラザラ」
村上信五さん
「これ、つるつるやったんやて、元々」
お父さん
「あ、そうなんですね。あ、すごいザラザラ」

地下展示場の真ん中には、パノラマ模型があります。

田村友里アナウンサー
「元々、原爆資料館にあったものなんですけど」

村上信五さん
「この山があるからここに家屋が残ってるけど、これ山がなかったら…」
田村友里アナウンサー
「そうなんですよ。まさにこの比治山に守られてっていう話は、結構あります」

「どんな気持ちだったのか?」 時代を越えて心を寄せて

被爆後すぐは救護所として使われた本川小学校ですが、翌年2月には、授業が再開されていました。

村上信五さん
「これはすごいな。壁とか…。そして、どんな気持ちで授業を先生もしてたのか、子供たちも授業受けてたのかっていうね。それぞれに必ず何かしらの影響はあったでしょうに」

VTRを紹介した後、村上信五さんは、2種類の感想を話しました。

村上信五さん
「何度も何度も広島に足を運ばせていただく機会を得て、やっぱり土地勘が少しずつ掴めてきた側からすると、爆心地からの距離感。何百メートル、何キロっていう、被爆者の皆さんのお話もそうですけど、この距離感でまあ、こういうことがあって、この1キロ圏内ではこうで、2キロ圏内ではこう、3キロ圏内ではこう…ということがわかってきました」

村上信五さん
「今朝の資料館、見学の途中で、お父さんとお子様と少しお話させていただいたんですよ。そしたら北海道は札幌から、今日・8月6日のことを学びたいと、でお子様にも体験させたいということで、まさに8月6日を狙って来られたんですって。でお子さんに伺ったんですよ、どうでした?と。昨日から来られて、原爆資料館など他にも回られたということでしたので。お子さんに聞いたら、もう答えは本当にシンプルで、『怖い』っていう答えのみだったんですよね。

村上信五さん
「でも、それは率直な感想だと思いますし、じゃあもし明日、現実にこんなことが起こるって想像できる?って話してたら、それはやっぱ『全く想像できない』と。だからやっぱり、そういう世代の子たちに、改めて平和って何だと思う?って聞いても、きっと質問が大きすぎて、答えられないよな、というのも思いましたね。そう意味では、被爆者の方が直接伝える言葉の強さ、重さ、説得力っていうのは、当然あると思うんですけども、我々世代が間に入ることによって、より若い世代の子たちに、もちろん怖くはあるけれど、その怖さ、恐ろしさ、苦しさ、辛さの…内訳と言うんですかね、そこをもう少し僕らがほぐしながら伝えていかなきゃいけないのが、我々世代の役目なのかなというのは、今日朝、いろんな方とお話させていただいて、ちょっと思い改めた部分ですね」

3歳で被爆した女性が村上信五さんに伝えたこと

村上信五さんは、この日、3歳で被爆した女性とも会って、お話を聞きました。お話の一部を放送で紹介しました。

村上信五さん
「あ、おはようございます」
被爆者 松本滋恵さん
「初めまして、おはようございます。松本滋恵です。よろしくお願いします」
村上信五さん
「よろしくお願いします」
田村友里アナウンサー
「こちら松本滋恵さん。こちらのハチドリ舎でも、6のつく日にいつも語り部としてお話しをしてらっしゃいます」

お会いした場所 Social Book Cafe ハチドリ舎では、6のつく日に「語り部さんとお話ししよう!」というイベントを開催して、被爆体験を気軽に聞ける機会を作っています。

松本さんの話は、1945年8月5日のことから始まりました。

被爆者 松本滋恵さん
「母の実家はですね、爆心地から約500メートルのところにありました。母の実家には母の兄夫婦がいて、子どもがいなかったから、ゆくゆくは私はそこの養女になる予定でした。私は、その母の実家にいて、江波の我が家に8月の5日に…」
村上信五さん
「前日に?」
被爆者 松本滋恵さん
「そう、前日に帰ってきた。それも夕方遅かったらしいんですよ。それで私は今こうして生きてお話ができるんです。でも母の実家にいた祖父、伯父夫婦、そして叔父の4人は原爆で亡くなりました」

村上信五さん
「皆さん、だってまだ、お若いですよね?」
被爆者 松本滋恵さん
「あ、そうですよね。伯父夫婦が43と…」
村上信五さん
「うわっ!僕、44なので。勝手ながらですけれどもね、これからの人生、松本さんが移られてってなった時に、色々思い描いてた未来はおありだったでしょうからね」

今の村上信五さんと同じ年頃で伯父と伯母は亡くなり…生かされた自分

田村友里アナウンサー
「8月6日は、爆心地から3キロの旧江波町で被爆されたということですけど…」
被爆者 松本滋恵さん
「4人が朝の食事をしてたんですね。ちょうど目の前に赤い火の玉が落ちたのを覚えてます。そしてその途端に、さっきまで寝ていた部屋、そこは爆心地から近いものですから、窓ガラスは粉々に壊れて、天井は落ちて、その部屋に寝ていたら、まあ亡くなっていたか大怪我をしていたかわからないんですがね。そういう形ですから、被爆から生かされているという思いがね、私の心の中にずっとありました」

田村友里アナウンサー
「で、3日後に江波町から本川町に?」
被爆者 松本滋恵さん
「(母は)私と弟を乳母車に乗せて実家に向かいましたけど、まだ3日後ですからね、死体や瓦礫が多くあって、なかなか乳母車を押すことができなかった。で、もう、爆心地から500メートルですからね、もう焼けて何にもなかった、って」

村上信五さん
「ほんとに見る影ないくらいですか?」
被爆者 松本滋恵さん
「ええ、そうですね。(伯父ら)3人の遺骨があったそうですが、(母は自分の)父の遺骨がないから、乳母車を押して爆心地をぐるぐるぐるぐる回ったそうですが、未だにどこで亡くなったのか、遺骨もない状態です。乳母車の中で見た光景はですね、3才でも衝撃だったんだと思うんですね。今までに見たことない景色ですよね、もう焼け野原で。電車の中で吊り革を持ったままの真っ黒な死体とか、髪の毛が逆さまになった死体を見たのを覚えてます」

脳裏に焼き付いた被爆後の様子と心に沈む父の勲章

田村友里アナウンサー
「ここ広島だと、被害、被爆の話が語られることが多いんですけど…」

松本さんは、父親がもらった勲章を大切に、でも複雑な気持ちで保管しています。

被爆者 松本滋恵さん
「母から生前ね、『父は、敵を9人殺したから自分は絶対に畳の上では死ねない、って言っていた』ということを聞いてたんです。父には当時戦争で、『敵は人間じゃない、動物だ、鬼だ、殺せ』っていう風に、政府が言ってたみたいで」
村上信五さん
「教えられてたんですね。ま、特に、現代と違って情報というのが非常にね、少ない頃ですから」
被爆者 松本滋恵さん
「そうですね、ええ」
村上信五さん
「ま、政府の言うことは、ある種”絶対”じゃないですけどね、従わなければ非国民と言われてましたしね」

村上信五さん
「8月6日を生き延びた松本さんが、今、これだけは必ず、残し伝えていきたいと思う核心的なところ、根幹的なところというのは、どのあたりでしょうか?」
被爆者 松本滋恵さん
「核は絶対に、使用してはならないし、そして使用どころじゃなくって、廃絶に向けていかなければ、それこそ人類の存亡にかかってますよね」

村上信五さんが向き合ったヒロシマ・8月6日

VTRでは紹介しきれなかった松本さんのお話を、スタジオで、村上さんは振り返りました。

村上信五さん
「松本さんも、語り部として残された時間はやっぱり少なくなってきてるというのはおっしゃられてましたし、今だからようやく言えることもあると。
あとは、3歳の時に被爆されて、電車で立ったまま焼け焦げて、立ったまま亡くなられた方を実際に見たんだと。髪の毛が逆立ったまま亡くなられてた方を見たんだと。でも小学校に上がった時に、当時の同級生にそれを話しても信じてもらえなかったんですって。『そんなことあるわけない、そんなん嘘に決まってる』と。でもそれをきっかけに、『あ、この話はしちゃいけないんだ、どうせそうやって嘘だと思われるんだったらやめよう』と思って、もうしばらく話さなかったんですって。

村上信五さん
「で、あのサンフランシスコのあの条約まで、当時アメリカも、話してはいけないよという期間がありましたから、それもあいまって余計とずっと蓋をしてたと。
その後、色んな自分以外の被爆者の方の話が出てきた時に、自分と共感してる言葉であったりとか、見てた景色が、『あ、あれ一緒だ、やっぱり間違いじゃなかったんだ』という確信得られたことによって、還暦になられてから大学院にも行かれて、博士号も取られて、子どもたちと接し方について心理学の勉強もなされて、でそれも含めて、語り部として、もうやっていこうということで、本を書かれたというところから、今の活動に繋がる、ということを、お話しされていて。やっぱり語るまでの準備もあるんですよね」

村上さんは、実際に、被爆した建物に行き、被爆した方にお話をうかがうことで得た感覚について、こう話しました。

村上信五さん
「平和という言葉の定義、自分の中での咀嚼の仕方とか噛み砕き方とかの腹落ちさせる、内訳はすごく変わりましたね。というか腹落ちしなくなったという方が、今は適切なのかもしれないな。なんか一概に「これだから平和ですよね」って、安直に言えない。もちろん今、僕たちがこういう活動をできてたりとか、テレビでこう話せてるっていうのは、平和の一つなのかもしれないけれど、でもそれはやっぱり先人たちが苦しみと闘ってきてくれた過去があるから成り立ってることであって、もちろん地域、世界を見れば、僕たちが享受してる”当たり前”って当たり前じゃないことも、同じ時間軸で動いてるじゃないですか。だからその平和という言葉の意味って、これからも考え続けなきゃいけない、伝えていかなきゃいけないな、という大きな問いとして、改めて今抱えているのが正直なところです」

村上信五さんが向き合ったヒロシマ・8月6日についてお伝えしました。