「わたしは姉を見殺しにした…」。生涯、悔い続けた男性がいます。「待ってて、今、助けてあげるから」と姉に言ったはずだったのに…。被爆から50年が経った1995年のある日、その男性は、証言を静かに始めました。

NPT(核拡散防止条約)の再検討会議が27日、アメリカ・ニューヨークの国連本部で始まります。核軍縮や不拡散を巡る情勢が厳しさを増すいまだからこそ、RCCのアーカイブに残る被爆者の声を届けます。

きっかけは被爆2か月後の映像

原爆が投下されて2か月後に撮影された映像に、広島逓信病院でガラスが突き刺さった目の治療を受けている女性の映像が写っています。

幟町(現・広島市中区)の自宅で被爆した松下ひささんです。

治療を受ける松下ひささん(1945年 提供:日映映像)

私たちは被爆50年のとき、この映像を検証。映像に映る人たちを探しました。
そして、ひささんの次男・高倉光男さんに会うことができました。

しかし光男さんは、家族の被爆体験を50年間、誰にも語りませんでした。家族にさえも。

きのこ雲の下で何が起きたのか

1945年8月6日。原爆が投下されたとき、幟町の自宅には当時中学生だった光男さんと母のひささん、そして2人の姉がいました。

ひささんはガラスを浴びて大けがをし、次女の和子さんは建物の下敷きになりました。

松下ひさ さんの家族

光男さんは原爆投下の衝撃を「一瞬、体じゅうがムチ打たれたようになった」と表現しました。

母のひささんは「あんたたちは大丈夫か? 和子はどうした?」と、子どもたちを心配していたといいます。

「助けて」がれきの中から姉の声が

姉の和子さん

1人、木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなっていました。

すると、「ここよ!お母さん助けて!」と姉の声が聞こえ、光男さんが向かいました。

しかし、2階建ての家がつぶれ、大きな梁が落ちていてました。

木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなっていました。

「いま助けてあげるから待ってて」

高倉光男さん

助けに向かった光男さんでしたが…

「中学生に動かせるはずがありません。微動だにしません。それでも、泣きながら『待ってて、今、助けてあげるから』と。

ふと気がついたら、まわりに火の手が上がっていた」

このままではみんな焼け死んでしまう。

光男さんは、姉の和子さんを残し、重症の母・ひささんを背負って必死で逃げました。

「お母さんを助けるために姉を見殺しにしたことは、母には死ぬまで言いませんでした」

母のひささんは、娘・和子さんの最期の様子を知らぬまま、1982年に亡くなりました。

「姉を見殺しに…」悔い続けた弟

高倉光男さん
「わからないんです。姉さんを助けたい。おふくろを助けるのが大事なのか、自分が助かりたいためにおふくろを背負って姉を見殺しにして逃げたのか。

わたしは、生きて『お母さん、助けて』という姉を見殺しにしたことは事実です。だから、しゃべりたくないんです。

だから、原子爆弾のことを思い出したくないの。誰にも言いたくない。

言うと悲しくなって、涙が出て。

今でも…言えません」

高倉光男さん(1995年)

「原爆だけがいけないのではない」

高倉光男さん
「今後、原爆でこういうふうなことはあったら世界中、同じようなことがどこでも起こるんじゃないかと思います

でもね…」

光男さんは続けます。

「原爆だけがいけないんじゃないと思います。戦争は、なんでもいけません。武器を使う戦争は。小銃であれ、ピストルであれ。

原爆がいかんで、大砲がいいなんて、そんなアホなことありますかいな。とにかく武器はいけませんよ。戦争はいかん」

被爆から50年。自分の家族にさえ被爆体験を語らなかった高倉光男さんは、このインタビューの翌年、亡くなりました。

松下ひさ さんの家族

高倉光男さん

松下ひさ さん