「無意識にチョウチョ結びとかすけぇ」。北広島町出身のパラアスリート・白砂匠庸さん(29)。左手首より先がない状態で器用に靴紐を結びます。境田翔コーチも「よく縛れるなって」と感心すると「俺もよくできるなって思います」と笑顔を見せます。

白砂さんはやり投げのパラアスリート。パラスポーツは、障害の種類や程度によって細かくクラスが分かれていますが、白砂さんは、『腕』に障害があるF46のクラスで、これまで東京パラリンピック(6位)やアジアパラ競技大会(7位)など、数々の世界大会に出場してきました。

今や日本を代表する選手の1人ですが、その裏には、2歳で左手を失ってからの本人の前向きな努力とそれを見守り続けた、両親の思いがありました。

世界的にも珍しい!?白砂選手の『特注の義手』

白砂匠庸さん
「(今年の)最終ピークは6月の日本選手権、で最終的にはアジア大会って形で目標は設定しています」
境田翔 コーチ
「持ってるポテンシャルだけでいえば、世界でもトップクラスだと思うので。自分の持ってる力をそのまま出し切ることができれば、日本どころか世界の1位を獲ることも夢じゃないと本当に思っています」

トップパラアスリートの白砂さんは、バランスをとるために、投てき選手としては珍しく、義手を付けて競技しています。

白砂匠庸さん
「義肢装具士の先生達と考えながらやって。血は通いませんけども、ちゃんと神経的には指先まであるっていう感覚はありますね」

白砂さんは、10代の選手たちへの指導も行っています。世界を舞台に戦う先輩アスリートの姿に生徒たちは、障害の有無を超えた憧れの眼差しを向けます。

練習に参加する生徒
「元々ファンだったので、はじめて会ったときはサインもらおうかなと思いました。自分の弱点を弱点としないところが憧れるところです」
「使えるところが限られてるのに、体の使い方がすごいうまくて、あんなに飛ばせるのがすごいなって思います」

世界を舞台に戦い、後輩への育成も行う白砂さん。しかしここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

「全部覚えている」左手を失った2歳の記憶

生まれたときは、障害がなかった白砂さんですが、2歳のときに左手首より先を失う事故に遭います。大のおじいちゃん子だった白砂さん。祖父の草刈作業を手伝っているときでした。

白砂匠庸さん
「機械に左手を巻き込んでしまってですね、左手の手首から先を失う障害を負いました」

当時の記憶ははっきりと覚えているといいます。

白砂匠庸さん
「機械に手を巻き込んだ時の記憶も、救急車に乗って家の前の通りを出る記憶もすべてあるのと、目を覚まして包帯から自分の、この手のない状態を見たのもすべて記憶があります。

でも、まだ物心もつくかぐらいの時なんで、そこまで苦ではなかったんですよね。おじいちゃん、おばあちゃんたちに『左手なくなった!』って見せに行くぐらいの子だったので」

左手を失いながらも戸惑いは少なかったいう白砂さん。しかし両親は、最愛の息子の人生を一変させた事故を受け止められずにいました。

左手を失った最愛の我が子に両親は 「この子と一緒に病院の上から…」

「草刈ったのを集めて、それを小さく刻むんですけど、その刻む機会の中に一緒に手を突っ込んでしまったって感じで」

母の富甲子さんは当時のことをこう振り返ります。

「もう何が何だかわからん、救急車呼べって言われても救急車の呼び方が分からない。もう『ギャー』って叫びました。涙よりも『どうしよう、どうしよう』っていう動揺で、何も手につかない。この子と一緒に病院の上から飛び降りようかなと思ったりとか」

富甲子さんは「『将来がどうなるか、どんなになるんだろう』と思って、そういうところばかり気になってしまって」と話します。

父の満義さんもこう振り返ります。

「『なんであのとき手が無いなったんかの』と(周りに)言われたことがあって。いやそれはもう言いようがないんですよね、自分的には。『いやそれはもう運命じゃけ』と」

「本当はやってあげたかった」厳しく育てた母の覚悟

2歳で大きな障害を抱えることとなった白砂さん。成長するにつれ、洋服のボタンを留めることや両手を使う縄跳びなど、生活で困る場面も増えました。

しかし、両親は、白砂さんの背中を押し続けました。

白砂匠庸さん
「全然ハンディキャップとかはもう関係なしで、『やりたいことはやれ』っていう両親なんで。チャレンジしたいことはチャレンジさせてくれました」
 

母の富甲子さんは、ときに厳しく接したといいます。

母・富甲子さん
「できないことでもすぐ『できん』っていうけど、『嫌でも、自分でやらんと』って、厳しかったかな。手を出したかったけど、ある程度頑張らせて、できたら自信がついて、みたいなのが」

本当は「いいよ、やってあげるよ」と言ってあげたかったー。

葛藤を抱えながらも最愛の息子のため、あえて厳しく接していました。

左手を隠したかった思春期 「障害を認めたくない気持ちがあった」

左手の障害をものともしない活発な子ども時代。しかし、思春期を迎えると障害を負った「左手」を隠したいと思うようになりました。

白砂匠庸さん
「中高生時代っていうのは、本当にリアルな義手をはめて、左手を隠すというか、見せたくないなっていう思いもあったので、(障害を)あまり認めたくないなっていう気持ちもありました」

そんななか、高校3年生のときに部活の顧問から「パラ陸上」大会への出場の誘いを受けます。

当時の元顧問・出口彰 さん(2021年)
「まじめでね、一生懸命クラブ活動もやってたんですよ。何か光るものを見つけてやりたいなと思って」

戸惑いを抱えながらも会場に足を運びました。すると…。

白砂匠庸さん
「自分よりハンディキャップが大きい両足義足の選手もいるっていうなかで、イキイキと選手たちがやってる。こんな世界あるんだ、面白そうだなっていうのが第一印象。」

障害への葛藤をパラスポーツとの出会いで払拭した白砂さん。その前向きな姿は、両親のことも救っています。

「あんた左手なかったね」笑い合えるいま

世界で活躍するパラアスリートに成長した白砂さん。ときに厳しくその成長を見守ってきた母・富甲子さんの心境も大きく変わりました。

母・富甲子さん
「最近、腱鞘炎の指の手術してちょっと指が動かなくって。それでペットボトルのキャップが開かなかったんですよ。ちょうど息子がいたんで、『ちょっと開かんけえ』って言ったら『あ、あんた手がなかったね』って言って。それぐらい何でもできるから、ついつい頼んでしまう」

富甲子さんは事故があった当時の自分に伝えたいといいます。

「今は、こうやって笑顔で前向きに生きていけるよ」

白砂さんも力強く語ります。

白砂匠庸さん
「つらい経験もたくさんありますけども、自分の左手の可能性をしっかり伝えていく、本当にありのままの自分を。逆にいまは『どうぞ左手を見てください』っていう思いの方が強いです」