RCC東京支社報道制作部長が東京での取材メモを配信します。
広島の記者が東京で感じたコト。また東京から見た広島とは。

東京で知り合った被爆者の女性が亡くなった。

1月の被爆者団体の新年会で会えると思っていたが肺炎にかかり欠席だった。

数日して訃報が届いた。

去年3月に最後に言葉を交わしたときは93歳だった。

広島の被爆者だ。

生前、女性が入りたいと言っていた「原爆被害者の墓」。東京都八王子にある合葬墓。先立った夫も眠っている

一度、食事をしながら原爆の体験を聴かせてもらったことがある。

あの日は学徒動員で可部地区にいて難を逃れた。父は出征中だった。

妹は建物疎開の作業に出ていて被爆。その日のうちに亡くなったと知らされた。

妹とは午前6時ころに家を出るときが最後になった。

手を振って別れるのがなんだか嫌な気持ちがした、と当時を振り返った。

母と一緒に捜し歩いたが遺体はまとめて焼かれたと聞いた。

母は自宅にいてガラスが刺さり傷だらけになったが一命は取りとめた。

自宅は焼けてなくなった。

生き残った母と2人で10日間ほど防空壕で暮らした。

高等女学校の友人が見かねて自分の家に招いてくれた。

緑井(いまの安佐南区)の呉服屋さんだった。

そこには友人の親戚もたくさんいた。半年ほどお世話になった。

本当にありがたかったが申し訳ないのでその後は自分の親戚のいる宮城県に移った。

ずいぶんと後に緑井を訪れたが家は見つからなかった。

御礼を言いたかった、と残念そうに語ってくれた。

母は79歳まで生きたが体調は悪くいつも頭が痛いと言っていた。

被爆者健康手帳は持っていなかった。

手続きがわからなかったからだそうだ。

これまで原爆の体験を積極的に語ることはなく、子どもにも詳しい話はしていないとのことだった。

私は大変貴重な機会をいただいたわけだ。

いずれあらためて取材してテレビ番組などで報じたいと思っていたがかなわなかった。

彼女のように多くを語らず亡くなっていく被爆者はたくさんいるのだろう。

他人である私に話してくれた気持ちを大事にしていきたい。