「いま残されているのはここだけ」。広島に原爆が落とされた直後から負傷者が殺到した病院があります。被爆建物でもある広島逓信病院旧外来棟。いまは被爆資料室となっていますが、床や壁に貼られたタイルは当時のまま。まさにその場所で、原爆によって傷ついた人たちへの治療が行われていました。被爆者を見守り続けていた建物は、当時を追体験できる数少ない場所です。
爆心地から約1.3キロにあった広島逓信病院は、倒壊こそ免れましたが、火災に見舞われました。その場にいた医師や看護師たちの懸命な消火活動により、わずかではありましたが、医療器具も守ることができたといいます。そして、原爆投下直後から、負傷者が殺到しました。
治療を手伝う本多浜子さん
広島逓信病院の看護師だった本多浜子さんは「何日経ってもその行列が途絶えなかった」と話します。
広島逓信病院の元看護師 本多浜子さん(1995年取材)
「もう手元が見えさえすれば。手元が見えないようになるまで、毎日、治療をしていた」
沼田鈴子さん(1994年取材)
医療器具や医薬品は乏しく、現場は過酷を極めました。それは、医師や看護師だけでなく負傷者にとってもです。
逓信病院に隣接していた広島逓信局で被爆した沼田鈴子さんもその一人でした。
沼田鈴子さん(1994年取材)
「あんなひどい目に遭ってよく生きていたなって。生きることができたなって思う」
沼田さんは、倒壊した建物の下敷きになりました。
沼田鈴子さん
「建物の中にいて、下敷きになってね。足を、足首切断した。それで今度、放置していう間に足が腐った」
化膿が進み、左足首だけではなく、太ももから切断することに…。麻酔はなく、手術が行われ際には、病院中に沼田さん悲鳴が響いたといいます。
被爆者の治療を見守った建物は、病棟としての役目を終えた後はカルテの保管場所などに使われていました。そして1995年、保存工事を経て被爆資料室として整備され、いまもその姿を残しています。
資料が展示されている部屋は、多くの患者が詰めかけた場所でもあります。床、壁に貼られているタイルも、あのときのままです。
被爆建物の保存活用に取り組む高橋信雄さんは、子どもたちをこの場所に案内し、当時の状況を伝えています。
原爆遺跡保存運動懇談会 高橋信雄さん
「写真とか、記録ではなく、そこに立って感じるものは、全く違うと思う」
旧外来棟は、2018年に日本郵政から広島市に寄贈されました。広島市は、この建物を原爆資料館の付属施設とし、再整備をしていく方針を示しています。
広島逓信病院旧外来棟
一方で、資料室として活用されているのは、1階のほんの一部です。高橋さんは、いまも当時の面影がある手術室を残しつつ、「建物全体で被爆の記憶を伝える施設にしてほしい」と話します。
高橋信雄さん
「当時の形で残っているものが、一つでも多く存在するということが、あの日の広島を引き継ぎ、語り継いでいく。受け止めていく意味で、大きな力になる」
ヒロシマの記録を未来へつなげる。被爆建物もまた、その役割を担っています。
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