今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。
大妻技芸学校の校長になったコタカさんは、生徒たちから「お母さま」と呼ばれ、慕われていました。
学校経営の責任者だった夫の良馬さんは、「お父さま」として尊敬され、ふたりは生徒をわが子のように愛したのです。
昭和4年。
コタカさんと良馬さんは、手塩にかけて育てた大妻技芸学校を法人にする、
という目標に向かっていました。
いろいろ苦労しながらも、なんとか手続きを終えて、あとは文部省の正式な認可がおりる日を待つばかり。「いつかは総合大学にしよう」という夢も、語り合っていました。
そんなある日、良馬さんが急性肺炎で倒れてしまったのです。
あらゆる手を尽くしたのですが、回復の兆しは見えません。
そして、発病してわずか5日後、57歳の生涯を閉じることになりました。
明治40年に結婚してから22年。
うれしいことも、大変なことも、分かち合ってきた夫との突然の別れ。
この日のことは生涯、コタカさんの脳裏から消え去ることはありませんでした。
最愛の人が旅立った翌日。コタカさんは、ある行動を起こします。
「あなたのあとは、立派に受け継いでゆきます」と心に誓い、文部省へ使いを出しました。法人の認可がおりる日を、夫が亡くなる前の日付にしてほしい、と願い出たのです。
それが、学校を法人にするため必死で動き回ってくれた、良馬さんの遺志に報いることなると、コタカさんは考えたのでした。
願いが叶って昭和4年3月16日、良馬さんが旅立った前日の日付で、「財団法人 大妻学院」を設立することができました。
学院長になったコタカさんは、このとき45歳。すべての責任を、その背中に負うことになり、全財産を大妻学院に寄付しました。学校のために全力を捧げ、自分たちの利益を求めない。つまり、学校経営を生活の糧にしないという良馬さんとの約束を、コタカさんは生涯守り続けたのです。
世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週
ごきげんよう。さいねい龍二でした。
この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。
■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久
■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会
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