今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。
東京の千代田区三番町(さんばんちょう)に、大妻技芸学校の校舎が完成した翌年の大正12年。夏休みが明けて、二学期の始業式を終えた正午近くに、誰もが想像しなかった出来事が起こりました。
関東大震災です。
9月1日の午前11時58分。
突然、激しい揺れに襲われて、学校と隣の家との境になっていた高さ4メートルの崖が崩れ、帰り遅れた数名の生徒が、土の中に埋まってしまったのです。
助けを呼んで、なんとか全員を掘り出すことができたものの、ふたりの生徒が帰らぬ人となってしまいました。
折からの強風で火の手がまわり、あたり一面は焼け野原に。
大地震で瓦一枚落ちなかった木造5階建ての校舎は、火焔(かえん)に飲み込まれ、すべて焼け落ちてしまいました。
あまりの光景に呆然とするコタカさんでしたが、生き残った生徒や教職員を、なんとしても守らなければなりません。食糧を確保するために奔走し、その事情を聞きつけた生徒の家族が、荷車に差し入れを積んで駆けつけてくれたこともありました。
人の情けに助けられ、コタカさんと夫の良馬さんは、「必ず学校を再建する」と心に誓います。
生徒を失って悲しみにくれ、建てたばかりの校舎を失っても、教育への熱意を失うことはなかったのです。
コタカさんは、被災を免れた学校をまわって頭を下げ、大妻の生徒が授業を受けられる場所を貸してもらいました。良馬さんは、仮の校舎を建てるために、木材を求めて地方の山まで出かけて行きました。まさに、裸一貫からの再スタートです。
こうして、震災の3か月後には仮の校舎が完成し、授業を再開することができました。
この復旧の早さは、被災した学校の中では先駆的だったと言われています。
無一文になっても、決してあきらめなかったこと。周囲の人たちのあたたかい協力があったこと。後ろを振り返ることなく、がむしゃらに学校再建をめざしたことで、震災の翌年、大正13年の3月には新しい校舎が完成したのです。
世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。
この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。
■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久
■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会
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