今から140年前、広島県の世羅町に生まれた大妻コタカ。
明治・大正・昭和の時代に立ち向かい、
ただ一筋に女子教育の道を切り拓いた、その生涯をたどります。
大妻技芸学校の校長になったコタカさんを、校主(こうしゅ)として支えたのは、夫の大妻良馬さんでした。校主とは、学校経営の責任者のことです。
大正10年には、長年勤めた宮内省を退官して、学校経営に専念。
建築関係の仕事をしていた経験を活かして、新しい校舎の設計も自ら手がけました。
それまでの教室は、どんどん増える入学希望者を、受け入れるだけの広さがなかったのです。
大正6年、東京の麹町区(こうじまちく)、今の千代田区三番町(さんばんちょう)に土地を買い、木造5階建ての立派な校舎が完成したのは、大正11年のこと。
教育環境としては理想的な立地で、そのぶん資金集めは大変でした。
コタカさんは実家に頭を下げ、良馬さんの才覚で経費を調達し、なんとか新校舎の建設にこぎつけたのです。
落成式が盛大に行われた日。
挨拶の壇上に立った良馬さんは、「私ども夫婦は学校のために全力を捧げ、自分たちの利益を求めず、自分たちに都合のいい後継者をつくらないことを、ここにお誓いします」と決意を述べました。そして、「子どものいない私どもにとりまして、本校の生徒さん一人ひとりが、わが子だと思っております」と優しく語りかけたのです。
実は、この挨拶の内容を、コタカさんは事前に知らされていませんでした。
学校経営を生活の糧(かて)としない、という大事なことを、ひと言の相談もなしに宣言したのですから、驚いたことでしょう。けれど、良馬さんの言葉は、そのままコタカさんの思いでもありました。
ここに至るまで、コタカさん自身は学校から報酬を得ることなく、良馬さんの恩給などで、つつましく暮らしていました。その生活を、どんなに学校が大きくなっても続けていくと、ふたりは同じように心の中で決めていたのです。
こうして、女子教育にすべてを捧げる道を、夫婦が車の両輪となって進んで行くことになりました。
世羅町の大先輩、大妻コタカさんの物語はいかがでしたか。
つづきは、また来週。
ごきげんよう。さいねい龍二でした。
この企画は、世羅町合併20周年と、世羅町出身の教育者で女性リーダーの草分け的存在・大妻コタカの生誕140年を機に、同氏の生涯を辿るオーディオコンテンツを制作、RCCラジオでシリーズ企画として放送するものです。
■ナレーター さいねい龍二
■ライター 角田雅子
■企画 奥土順二
■ディレクター・音効 石塚充
■プロデューサー 増田み生久
■協力 世羅町、大妻コタカ記念会、大妻女子大学
■写真提供 大妻コタカ記念会
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