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ことし2月、私たち取材班は特別な許可を得て、ある男が死の直前まで住んでいた神奈川県、藤沢市の建物に入ることができた。
住宅地にひっそりと佇む木造の建物。男の死から1年が経ち、生い茂った草木を押し分けて進むと、玄関ドアが見えてくる。
男はこの建物で約40年にわたって生活を続けていた。
ドアを開けると土間があり、上がったところに台所の流し台がある。外光に照らされ、霞みがかかったように見えるほど、室内は埃だらけだった。
工事に使われる足場パイプで天井が支えられていて、そのすぐ横に階段がある。男が暮らしていたのは、この階段を上がった2階部分だ。
踏み抜いてしまわないよう恐る恐る階段を上がった先には大きな窓、襖で仕切られた広い2つの部屋があった。
手前の部屋には、タンスや棚、布団など、生活に関わるおよそ全ての物が乱雑に置かれていた。趣味のギターやラケット、積み重ねられた大量の漫画本、映画のDVD。ストーブや冬物の衣類もあった。警察による家宅捜索で一カ所に集められたのだろうか。
取材の中で、20年ほど前にこの部屋に泊まったという友人に話を聞いた。数人で料理を囲んで酒を飲んだという。その名残はもうない。
対照的に、奥にあるもう一つの部屋は、冷蔵庫以外なにも置かれていなかった。傷んで汚れた畳、壁には女性のヌードポスターが押しピンで留められている。電灯から垂れ下がったひもを見て、ここは寝室として使われていたのかも知れないと感じた。
天井のいたる所に貼られた養生テープは雨漏り対策だろうか。冬の風が入り込む度に音を立てるガラス。カーテンは日に焼けてボロボロになっている。
この部屋に住んでいた男は「内田洋」と名乗り、友人からは「ウーヤン」と呼ばれ親しまれていた。本名を桐島聡という。
1970年代に連続企業爆破事件を起こし、指名手配犯として49年にわたって潜伏を続けた桐島容疑者は、去年1月、入院先で本名を告白し、その後死亡した。
家主を失った部屋には、偽の名前で過ごした生活と、逃亡者としての内なる葛藤が遺されたままだった。
「桐島聡」と「ウーヤン」。2つの人生と交錯した人々の証言から、およそ半世紀にわたった逃亡の足跡を辿った。
1974年8月。東京、丸の内のオフィス街で時限爆弾が炸裂した。8人が死亡、およそ380人が重軽傷を負った爆弾テロ、三菱重工爆破事件。
一般人を無差別に狙った犯行は「東アジア反日武装戦線『狼』」を名乗るグループによるものだった。事件後、「大地の牙」と「さそり」が合流し、独自に、あるいは3グループ共同で企業を狙った。合わせて12件に及ぶ、東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件。桐島容疑者は「さそり」に所属していた。
3つのグループをつないだのは、「狼」が作った冊子「腹腹時計」だった。爆弾の製造方法を記した「腹腹時計」は、日本の侵略戦争と植民地問題の清算を強く求める、「狼」の思想を広げる役割も果たした。
東京外国語大学 友常勉教授
「『狼』は、基本的に日本の戦争責任、植民地責任の告発が目的で、三つの組織とも全部そうなんですけども、同時にアイヌモシリに対する侵略というのを意識していました。『大地の牙』も同様で、東アジアにおける日本のアジア侵略、特にその韓国におけるその侵略というのを意識していたということは言えます。『さそり』は、日雇い労働者の無権利状態っていうことから、問題意識が強く生まれた。寄せ場の運動と連帯しながら形成されてきた経緯がありました。そのために寄せ場にどういう労働実態があるのか。彼らは実際調査もしておきます」
桐島容疑者が所属した「さそり」の元リーダー・黒川芳正受刑者。無期懲役判決を受け、現在も服役中だ。私は1年にわたって獄中の黒川と手紙のやりとりを重ねた。
大学生だった桐島容疑者は「さそり」3人目のメンバーとしてグループに加わった。
黒川受刑者の手紙より「74年6月頃から寄せ場の運動の話を、学生たちにしていました。桐島は私の話を熱心に聞いていた。メンバーを増やす話をしていて『桐島はどうだろう』と」
東京外国語大学 友常勉教授
「さそりグループは、下層労働者・日雇い労働者が置かれた過酷な現状と、なおかつそれに対して様々な反対をしたり異議を唱えたりする労働者に対する建設会社や警察による暴力的な弾圧や処罰に問題意識を持っていた。『戦前の植民地主義責任を持った企業が、戦後も労働者に対する過酷な搾取収奪を繰り返している』と」
1974年12月、「さそり」の最初の事件。戦時中の強制労働や拷問を理由に、建設会社の資材置き場に爆弾を仕掛けた。爆発によるけが人はなく、黒川受刑者は予定通り作戦を終えたことを3人で祝ったと振り返る。
黒川受刑者の手紙より「缶ビールと即席ラーメンでささやかな酒盛りをしました。桐島がちあきなおみの『喝采』を歌い出しました。ビール缶や茶わんを箸で叩いて3人で声を合わせて歌いました」
翌年4月、「さそり」は単独で別の建設会社に爆弾を仕掛けた。この爆破で、当直を担当していた1人が重傷を負った。黒川の手紙によると爆弾は、この日初めて、桐島容疑者が設置したものだった。
事件後、桐島容疑者がつぶやいた言葉を、黒川は覚えていた。
黒川受刑者の手紙より
「まいったなどうしようこんなことになるなんて」
作戦継続を確認し合ったものの、黒川受刑者の目には桐島容疑者が「心の底から納得してはいなかった」ように映ったという。
「(桐島は)『なんてことをしてしまったんだ』っていう思いが表情に出ていましたね。『取り返しのつかないことをしてしまった』と」
そう語るのは「さそり」の元メンバー宇賀神寿一さんだ。黒川受刑者と同じく、動揺する桐島の姿を鮮明に覚えていた。
宇賀神寿一さん「(事件後は)日常の動作がいつもの元気良い桐島の表情と動作ではなくなっていました」
1975年5月。警視庁公安部は三菱重工爆破事件をはじめ、連続企業爆破事件に絡んだ3グループ8人を一斉逮捕。事件の全容解明に向けて大きな一歩を踏み出す。逮捕者には「さそり」のリーダー、黒川も含まれていた。
その朝、一斉逮捕を知った宇賀神さんは、桐島容疑者のアパートへと向かった。
※この記事は「ドキュメンタリー解放区『虚像 桐島聡とウーヤン ~連続企業爆破事件 半世紀の逃亡~』」を基にWeb記事化したものです。
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