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語り始めた92歳の被爆者 母校で証言 “生き残った後ろめたさ” 後輩に伝えたかった思い

原爆の記憶を語り始めた92歳の被爆者が、母校の高校で初めて証言活動をしました。後輩たちに伝えたかった思いを取材しました。

◇  ◇  ◇

92歳の被爆者、才木幹夫さん。広島国泰寺高校の前身で「一中」と呼ばれた「広島第一中学校」の出身です。

広島国泰寺高校の前身 「一中」出身 被爆者 才木幹夫さん(92)
「皆さん、こんにちは。こんなにたくさん、原爆被爆の体験を聞こうという皆さんの熱意に感動しています」

才木さんが証言者として活動を始めたのはことし4月。会を企画したのは、3年生の小林芽衣さんです。

生徒60人あまりが集まりました。

企画した広島国泰寺高校3年 小林芽衣さん
「才木さんは『話したくなかった』『罪悪感があったから』と。そこまでして私たちに伝えようとしてくれているのはなぜなのか知りたかったですし。どうしても先輩からお話を伺いたいなと思って」

79年前の原爆投下によって一中では、屋外で「建物疎開」の作業をしていた1年生を中心に、生徒や教職員、369人が亡くなりました。

才木さんは、当時2年生。「建物疎開」に行くはずでしたが、才木さんのクラスは急きょ休みになったため、自宅にいて無事でした。

慰霊碑には原爆で亡くなった生徒たちの名前が刻まれています。

生き残ったことの罪悪感から避けてきた「原爆」。母校では紙一重で生死が分かれた生徒たちのことも伝えたいと考えています。

広島国泰寺高校の前身「一中」出身 被爆者 才木幹夫さん(92)
「当時は全て、生き残ったことへの後ろめたさというものが、死んだ人に対してあるわけですよね」

被爆体験を語る才木幹夫さん(92)
「顔は腫れ上がって目を開けることができない。焼けただれて、服もちぎれている…」

才木さんは、原爆で亡くなった、ある1年生の生徒について、親の手記をもとに話しました。家が近くて、一緒に通学していたといいます。

亡くなった1年生の親の手記を朗読する才木幹夫さん(92)
「子供はかすかな息の中から『本当にお浄土はあるの?』と聞くんだそうです。『戦争も何もない静かなところだよ』と説明すると、『そこに羊羹はある?』
無邪気な問いに『ええ、羊羹でもなんでもあるよ』と妻が答えると『そう、そんなら僕は死のう』というんです」

質問が、相次ぎました。

企画した広島国泰寺高校3年 小林芽衣さん
「生き残ったことへの罪悪感はありましたか?」

才木幹夫さん(92)
「いま思うことは『生かされて』ということ。この生かされたことを世の中に使っていかないといけない。戦争の惨禍を味わった人間として、本当の平和を伝えないといけない」

「放送部」のメンバーは、才木さんのドキュメンタリーを制作中です。

被爆体験を聞いた生徒たちの感想は、校内に貼り出しました。

企画した広島国泰寺高校3年 小林芽衣さん
「原子爆弾を落とされたのは79年前だけど、今も苦しみを抱えて生きている人はたくさんいるので、決して過去のことではないんだよっていうのを伝えたい」

“生かされた者”として平和の大切さを伝えたいー。語り始めた才木さんの思いが後輩たちに受け継がれていきます。

◇  ◇  ◇

【スタジオ】
青山高治アナウンサー
今の生徒さんたちが、才木さんの被爆体験だけでなく、90歳を超えるまで原爆を語ることを避けていた才木さんが、今伝えたくなったという気持ちの変化まで知りたくなったというのが印象的でした。

コメンテーター 吉宗五十鈴さん(カフェ「雪月風花 福智院」店主)
当時、中学生だった方がこんなに長い間、そんな思いをずっと抱えて生きてこられたという重みを、実際に聞くと、すごく重く受け止めることができると思います。

中根夕希アナウンサー
実際に聞いた生徒さんも、自分の学校の先輩の話なので、より身近に感じたと話しているそうです。また今回企画した3年生の小林さんは、「聞いて終わりではもったいない。SNSや英語で発信したりして、自分たちにできるやり方で才木さんの体験や思いを広めていきたい」と話していたということです。

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